2015年5月28日〜31日 今回の旅行の目的は三つ。 1番目は、宮沢賢治の故郷を訪ねること。 2番目は、三陸海岸の縦断。 3番目は、東北大震災の震災後の姿を目に残すこと。 目的ごとに整理してみる。 かねてから、震災の跡を訪ねてみたいと思っていた。 けれども、どのような気分で訪問したらよいのか、正直言って自信がなかった。 単なる、野次馬気分では、行ってはいけないのではないかと思っていた。 実際はそんなものではない。行くことにこそ価値がある。圧倒的な震災の跡を見ると、 小さな自分の気持ちなどはどこかに行ってしまう。 まず、行ってみて、そこで感じることがあるのだと、今は思っている。 |
![]() <<石巻市大川小学校被災跡>> |
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<<震災関連の道路標識>> 三陸沿岸に出たその時から、被災地の連続だった。 最初は、風景を楽しむのだという甘い考えでいたのだが、いきなり現実を突き付けられた気分だった。 海岸線は岬と入江が交互に繰り返すのだが、入江や浜に降りていくたびに、 広々とした荒涼とした浜の風景と、行き来する工事車両の連なりが、 ここも、震災の被災地なのだという現実を呼び起こす。 道路には、日本中のトラックを集めたのかと思うほどたくさんのダンプが、工事現場ごとに決められているのだろうか、 色とりどりの工事現場名をかいたフラッグを、車体に張り付けて走っている。 国道45号線(ほぼ三陸海岸に沿って縦断している国道−仙台〜青森)には、 過去の津波での浸水域を表示する看板が立てられている。 上は、ここからの区間が、津波警報が出たときは通行止めになることを、右は、ここからの区間が、過去に津波によって浸水されたことがあることを、左は、その浸水区間の中で現地点がどの位置にあるのかを、それぞれ示している | |
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<<釜石付近>> 上の二つの標識のうち左側のものは、この写真を撮った場所にある。 海からはかなり高さがあるように思うのだが、実際にはこの場所も、津波が到達した地域になる。 常に津波が意識されているので、こんなところまでとか、あんなところでも、と思わされる。 この展望台でも、景色優先で停車したのだけど、この標識には違和感を覚えた。 というか、本当にここまで津波がきたのかと、信じられない思いだった。 | |
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<<陸前高田>> 震災の被災地の中でも、ここ陸前高田は特異である。 以前、市街地であったであろう一帯には、一切の建物がなく、巨大な櫓が林立し、土が山のように積まれている。 特異であるというのは、街中に立っている櫓と、それをつないでいる巨大なベルトコンベア群である。 ベルトコンベアの中継地点と思われる櫓は、5階建てのビルくらいなのか、思わず見上げてしまうほどである。 他の被災地でも、ダンプが走り回っていたが、これだけの巨大建造物はここだけであった。 まさに、町全体を作り替える巨大な工事現場と化していた。 近隣の山を取り崩し(川向こうの120mほどの山を40mくらいになるまで崩して土砂を作るということらしい)、 巨大なつり橋(小中学生が、希望のかけ橋という名前を付けていた)を経由して、 町の各所まで巨大なベルトコンベアでつないでいる。 市街地全体を数メートルかさ上げする工事らしい。金に糸目をつけず、周りのものをなぎ倒していく、強引さを感じた。 ここにきて、違和感を覚えるのは私だけだろうか。 本当にこれでいいのだろうか。地元の人が納得しているなら、文句を言う筋合いは全くないのだが。 これから、工事が進んで、市街地ができ、人が戻ってくるまでどれほどの時間が必要なのだろう。 そのためにも、迅速な復興工事が必要なのだろうが、肝心の「人」が置き去りにされてしまうような気がする。 ここには、一本松茶屋という駐車場兼休憩所の施設があり、ここから一本松まで10分程度歩くことになる。 | |
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その道の途中、道端に大きな石が並べられていた。
津波で流された石だとは思ったのだが、何のために並べているのだろうと不思議であった。
その中に、写真のような石があった。表には戒名が刻まれている。 これは、墓石なのだろう。捨てるわけにもいかないし、どこのお寺なのかもわからない。 数多くの石が、行先を求めているのを見て、被害の大きさが実感となって伝わってくる。 | |
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<<陸前高田:奇跡の一本松>> 陸前高田市は、震災前は、高田の松原で有名な土地であったが、その松原も震災による大津波で一本を残して全滅した。 その残った一本も、懸命の救命措置にもかかわらずに、枯死してしまった。 現在は、モニュメントの「奇跡の一本松」として、津波の激しさを伝える役割を果たしている。 モニュメントではあっても、感動的で、震災にも負けない希望のある話である。 ただ、近くに寄ってみると、一見して本物とは違って、表面が滑らかになっている。 復興が進んで、周りが、かさ上げされたとき、この一本松はどうなるのだろうか。 部外者の余計な意見ではあるが、やはり、松原からは海が見えるのがよいと思う。 なお、背後の建物は、津波で壊滅した高田ユースホステルである。 | |
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<<道の駅大谷海岸>> JR気仙沼線大谷海岸駅に併設されていた道の駅である。 津波によって気仙沼線も道の駅も破壊され、現在は、線路は放置され、仮設の売店が営業を行っている。 JR気仙沼線はBRTで運行を再開している。 線路のすぐ外に海岸が迫っている。津波の被害を想定して、線路の復旧はしないのかなと思う。 | |
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<<南三陸町防災庁舎>> 中央やや左の土砂の山の陰に頭だけ出しているのが、津波被害のシンボル的な形になってしまった防災対策庁舎である。 この町も、町を挙げての工事中で、ダンプが行きかい、通れる道も限定されている。まさに、工事現場の真っただ中である。 チリ地震のときの津波高(6.5m)を想定して建てられた庁舎だったが、想定を上回る15mの津波を受けて、 多くの犠牲者を出してしまった。 | |
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<<大川小学校跡>> 今回、一番衝撃を受けたのがここ、石巻市立大川小学校の被災跡地である。 ここで、児童74名、教職員10名が、津波の犠牲となった。 ここは、北上川の河口から4キロ以上も遡った場所にあり、昭和8年の三陸地震の津波の浸水域からも外れており、 震災前の津波による浸水の予想では、1m未満の安全地帯として避難場所に指定されていたほどだった。 実際には、川をさかのぼってきた津波は、2階建て校舎の屋根まで達するほどの高さになって、一帯を襲った。 この地区(釜谷地区)では、住民の約4割が犠牲になり、 また、宮城県内の小学校児童の犠牲者の4割が大川小学校の生徒であった。 校舎の後ろに見える裏山に登っていればと思わずにいられない。
何もない一面の荒れ野原の中に、小学校の現代的な建物の残骸が取り残されている。 対岸からもよく見え、全然、道に迷わなかった。 なぜ、こんな荒れ野の真ん中に小学校を作ったのだろうと、一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしい。 慰霊碑の傍らに、震災前の大川小学校の空撮写真が飾られている。周りには、住宅が立ち並んでいる。 どこにでもある住宅街の中の小学校だったのだ。 この付近一帯が震災後の津波に襲われ、小学校の建物だけが、廃墟として残されていた。 この地区全体が、膨大な被害の実態を物語っていた。 | |
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<<石巻市内>> 市内の日和山から、石巻市内が一望できる。がれきが取り除かれ、一面の荒れ地が残されている。 陸前高田や南三陸町で見た、町全体をひっくり返すような工事は行われていない。 ここでは、どのような復興が計画されているのだろうか。 | |
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河口付近を望む。 河口にかかっている橋は、日和大橋という。 津波は、この橋の最高部を越して押し寄せてきたという。 今日のような穏やかな海からは想像もできない。 | |
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<<石巻市:石ノ森萬画館>> 写真中央の橋のたもと、中洲の上にあるドーム状の建物が石ノ森萬画館である。 マンガ家の石ノ森章太郎は、宮城県の出身であり、学生時代にこの町の映画館に通ったことから、石巻を第2の故郷としていた。 町おこしの一環として、石ノ森作品の原画を所蔵展示する施設として、先の映画館に近い当地に、石ノ森漫画館を建設した。 震災の被害を受け、2年近い休館の後再オープンし、現在に至っているが、外部にはまだ工事の足場が組まれており、 完全復活には至っていない印象である。 | |
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<<門脇小学校>> 工事の覆いがかかっているが、3階建ての校舎は、津波に襲われた後、流されてきたがれきに火が付き、校舎全体が延焼した。 付近一帯は、震災後2日近く燃え続けたという。 なお、児童及び教職員は、裏山に避難して無事であった。 この校舎は海岸に正対しており、海岸からの距離は500mほどか。 常日頃から津波発生時の避難方法に気をつけていた成果だと思う。 | |
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<<女川町>> 女川の復興については、NETでかなり話題になった。 将来の町を担う若い世代に復興を任せ、年寄りは口を出すなと。 完璧なハード(巨大な防潮堤など)を作るよりも、減災の観点に立って、 ソフト面も含めた防災対策を計画し、スピード感を持って実施している。 確かに、町中は他の町と同じようにダンプが走り回っている。 しかし、町中には、共同利用の新しい冷凍冷蔵施設も完成し、新しい街路も形を見せてきている。 ニュースなどでも、いろいろのイベントで復興の後押しをしている。 | |
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<<女川駅>> 今年の3月には、女川駅が開業した。従前の位置よりも、山側に移動し、線路も付け替えられている。 そして、同時に、JR石巻線、仙石線が再開し、仙台まで電車でいけるようになった。 女川駅には、温泉施設が併設されている。 というか、ほとんどの部分が、その温泉施設で、そこに駅が間借りしている感じである。 この日は日曜日だったのだが、人でにぎわっており、早くも、新しい街の中心としての役割を果たし始めている。 | |
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この通りが、新しい街のメインストリートになる。 駅から、海に向かってまっすぐに伸びる道。 この両側に、いろいろの店舗が開店する予定だ。 ここでは、復興が形になって目に見えている。 | |
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<<原発被災地域>> 最後に、直接目にすることはできないまでも、恐怖は感じておきたいと思い、 常磐道を仙台からいわきまで抜けることにした。 道路にはところどころに放射線量の測定値の表示板が設けられている。 原発に近づくにつれ、数値が徐々に上がっていき、最高では、8μSvまで表示された。 写真は、原発を通り過ぎた、常磐富岡IC直前の道路上であり、ここまでが帰還困難区域になる。 |
<<感想>> 百聞は一見にしかず。とは、よくいったものだ。今回、東日本大震災の被災地を訪れることができたことで、 震災被害を身近に感じることができ、まだ、始まったばかりだということを、実感することができた。 すでに、遅いのではないか。もう、震災の被災跡は消えているのではないか。といった懸念は、あてはまらなかった。 北の普代村から、南の福島原発まで、縦断の途中はすべて被災地であり、復興に向かって進んでいる途中でもあった。 ほうぼうで、大規模な土木工事が行われていた。被災跡だけでなく、それがどう変わろうとしているのか、 どう変えようとしているのか、多分、完成後ではわからない状況を、目の前にすることができた。 多くの工事現場は、山を崩して市街地をかさ上げしていた。あるいは、今までの何倍もの高さの防潮堤を作ろうとしていた。 確かに、それで安心になる部分もあるだろう。 でも、大川小学校の悲劇はなぜ起こったのかを、まだ、追求する必要があるのだと思う。 小学校が建てられていた地区は津波被害の想定などなく、小学校が避難先に指定されてさえいる。 昭和8年の三陸地震津波のときには、何にも被害のなかったこの地区を、 なぜ小学校の2階の屋根に達するような津波が襲ったのだろうか。 それほど、大きな津波だった。想定外だった。ではない、科学的な研究がほしい。 海岸は埋め立てられ、あるいは護岸工事がされ、川も護岸工事や土砂の堆積などがあったのではないだろうか。 地形は徐々に変わっていく。津波の行先も変わっていくとすれば、今回の復興工事によっても、 どこまで先々の安全を保障できるかは疑問である。 大規模な防潮堤はどれほど役に立つのだろう。津波は普通の波とは違い、大量の水が押し寄せてくる。 せき止められたとき、その大量の水はどこに向かうのだろう。今回10mの津波が来たからといって、11mの防潮堤があれば大丈夫。 とは言えない。防潮堤によって地形が変わり津波の形も、向かう先も変わる。その時に11mの防潮堤で間に合うのだろうか。 土木工事で人間を守るのではなく、津波が来ても被害が最小限におさまるような、防災計画が必要なのだろう。 それと、忘れてならないのが、本来、この工事現場で生活を営んでいた人々のことである。数多くの犠牲者もいただろう。 そして、無事に難を逃れた人もいる。それらの人々は、生活の場を奪われ、多くが仮設住宅での生活を余儀なくされている。 かれらの現在の生活も、こんな短期の訪問では見ることはできなかった。でも、それを考えると、被害はまだ継続している、 としか言いようがない。 ※参考リンク 大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻 復興への道をひた走る――「商人の町」女川の挑戦 |