2016年4月15日
 5年ほど前に、美ヶ原を、松本から白樺湖に抜けたとき、帰り道に諏訪を通り、思ったほど遠くではないと思った。

 そのうちにと思いつつ、なかなか訪れることがない場所というものがある。 高遠の桜を目的としたときに、この機会に、諏訪にもいってみたいと思い、宿も諏訪に決めた。 さらに、今年が、諏訪大社の御柱祭りの年であることも因縁のような気がした。

諏訪大社の祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)と、その妃八坂刀売命(やさかとめのみこと)とされている。

諏訪大社下社春宮
<<諏訪大社下社春宮>>

諏訪大社上社前宮
<<諏訪大社上社前宮>>
諏訪大社は、上社・下社に分かれ、それぞれがさらに、上社前宮・上社本宮・下社春宮・下社秋宮と分かれ、都合4社からなる。 4社をすべて回ることを4社巡りという。

中央道の諏訪インタの近くの、国道152号線沿いに、上社前宮と上社本宮がある。

前回の訪問時と比べると、それなりに整備されたのだろうか、場所がわかりやすかった。これなら迷うことはない。

諏訪大社上社前宮
=拝殿:正面=
国道沿いの駐車場に車を入れる。目の前の鳥居(前の写真)をくぐり、坂道を5分ほど歩くと拝殿の前に着く。

諏訪大社上社前宮
=拝殿:全景=
諏訪大社が他の神社と大きく異なる点の一つが、拝殿の四方に立つ御柱である。 この全景は、左右の御柱が写っている。右端にあるのが前宮一の御柱、左側にあるのが前宮二の御柱である。

ここだけが、社の四方を廻って、4柱全部を確認することができる。

諏訪大社上社前宮


拝殿のある一角だけが、鬱蒼とした樹木に覆われている。

諏訪大社上社本宮

諏訪大社上社本宮
<<諏訪大社上社本宮>>
本宮の境内内の建物配置は変わっている。

駐車場からまっすぐのところにある鳥居をくぐり、東の入口御門から、参道わきの摂社末社を拝みながら、 東参道・布橋を抜け、塀重門から幣拝殿の領域に入ると、左側に幣拝殿がある。 結果的には、幣拝殿の背後に入口があることになる。

北の門前町の方からは、まっすぐ石段を上って塀重門をくぐることになるが、それでも幣拝殿は横を向いていることになる。

思わず、幣拝殿はどこにあるのだろうと、悩んでしまうような境内である。


=入口御門・本宮二の御柱=
さて、入口御門。欄間には、精密な彫刻が彫られている。

御柱を挟んで、大樹があり、「贄掛(にえかけ)の大欅(けやき)」という。樹齢1000年。

諏訪大社上社本宮

御柱祭りの最中ということで、幟がはためいていた。

諏訪大社上社本宮
=塀重門・本宮一の御柱=
北側には、仲見世といった形のお店が軒を連ねている。 普通に考えるとこちらが正面なんだろうな。

諏訪大社上社本宮
=勅使門・硯石=
拝殿の脇にある門で、境内内では最も古いものだという。

奥のひときわ高いところで、柵に囲まれている石を、硯石といい、諏訪の七石の一つとされる。 と言いつつも、他の石にはなかなかお目にかかれない。
石の上部が平らになっていると「硯」石と名付けるのだろうか、戸隠にも同じ名前の石があった気がする。

諏訪大社上社本宮

=幣拝殿=
諏訪大社は本殿を持たない。ご神体は、山・木・領域などをそのまま指しているようだ。

諏訪大社の四社の中で、実は、諏訪市にあるのはこの本宮のみである。 前宮は茅野市、下社の二社は下諏訪町にある。

諏訪大社下社春宮
<<諏訪大社下社春宮>>
=下馬橋=
下社の二社は、上社と諏訪湖を挟んだ位置にある。上社と下社が諏訪湖を挟んで対峙している感じである。

春宮に近づくと、いきなり、道の真ん中に橋が現れる。下馬橋と言い、春宮に参詣する場合の正式の通路がこの橋になるのだろう。 そして、少なくともこの辺りまでは、春宮の境内であったのだろうか。

駐車場は、境内に入る手前、右側にある。

諏訪大社下社春宮
=神楽殿=
境内に入ると、まず、この神楽殿がある。 神楽殿には、出雲大社を思わせる、骨太のしめ縄がかけられている。

諏訪大社下社春宮
=幣拝殿=
中央の楼門造りの建物が幣拝殿、左右に連なる建物を片拝殿という。

諏訪大社下社春宮
=幣拝殿・春宮一の御柱・春宮二の御柱=
拝殿の四方を御柱で囲んでいる。手前が春宮二の御柱、奥が春宮一の御柱になる。 当然のことながら、拝殿の後ろには三の御柱と四の御柱があり、塀の隙間から覗くことができる。

諏訪大社下社春宮

=幣拝殿と神楽殿=
春宮と秋宮はほぼ同じ建物配置で、神楽殿と幣拝殿が縦に並んでいる。

万治の石仏

万治の石仏

<<万治の石仏>>
春宮の西側には砥川が流れており、丁度、春宮のあたりで中洲ができていて、末社浮島社がある。 丁度、万治の石仏のある対岸に渡るための飛び石のような感じになる。

この石仏は変わった形をしている。 頭部はかなり彫り込まれているのだが、胴体は少し浮彫がされている程度で、未完成なのかとも思える。 実際に、頭部と胴体はくっついているわけではないそうだ。

ただ、整えられたものと違って、素朴な味わいがあり、ユーモアも感じさせる、他にはない石仏である。


周りは畑になっていて、普通に農家の方が手入れをされていた。 なにか、観光客としてぶらぶらしているのが気が引けてしまう。

製作されたのは、万治年間(1660頃)といわれ、石の鳥居と関連する伝説が残されている。

諏訪大社下社秋宮
<<諏訪大社下社秋宮>>
春宮から車で5分、秋宮に到着。春宮と異なり、秋宮の駐車場は、境内に入った右側に開けている。 朝から動いていて、そろそろお腹もすいてきたころ。向かいの食堂で、そばをいただく。

諏訪大社下社秋宮
=根入りの杉=
秋宮の境内でひときわ目立つのが、神楽殿の前にそびえる巨木である。 根入りの杉と言い、樹齢は700年とのこと。

「根入り」は、実際には、「寝入り」の意味らしく、丑三つ時になると枝を垂らしていびきをかくと伝えられる。

諏訪大社下社秋宮
=神楽殿=
巨大なしめ縄は、出雲大社のそれの直伝らしい。確かに大きい。形も出雲大社とそっくりだ。総重量は1トンという。

諏訪大社下社秋宮
=幣拝殿=
右側の片拝殿まえにある巨木は、天覧の白松という。

普通の松では二本で一組の葉が、この松には、三本の葉っぱがつながった「三葉の松」がつくということで、 見つけて財布に入れておくと、お金がたまるとか。

諏訪大社下社秋宮

=秋宮一の御柱=
上社と下社とで異なることの一つに、御柱の皮むきの時期がある。

上社は、木落としの後、里引きの前に皮をむく。下社は伐採直後に皮をむくので木落としも里引きもその後になる。 下社秋宮の御柱の後ろに回ると、木落としの際に着いた大きな傷跡が残っている。

このあと、ほぼ1か月後には、この柱に代わって、新しい御柱が立ったそうだ。

立石公園
<<立石公園>>
立石公園からは、諏訪湖と諏訪市街と諏訪を取り巻く山々を一望することができる。 くねくねと曲がる急坂を登ると、比較的大きな駐車場と展望テラスがある。ちょうど桜が満開。

遠景の白銀の山は、中央左は乗鞍、右端は穂高である。

立石公園


公園内にあるモニュメント、というか展望台なのだが、実は大きな日時計になっている。

諏訪高島城
<<諏訪高島城>>
諏訪高島城は、文禄年間に日根野氏によって築城され、江戸時代を通して諏訪氏が諏訪藩主としてこの城を居城とした。 現在の天守は、1970年に復元された天守である。

城内は公園となっているが、丁度満開となっていた。

諏訪高島城

諏訪高島城

諏訪高島城

天守閣から公園内を見下ろす。 この大きさでははっきりしていないが、遠景に富士山が見える。

富士山


堀も広く、水もきれいで、桜とよく合う。



乏しい知識で、諏訪氏は、武田信玄の諏訪攻めで滅んだものと思っていた。

風林火山(井上靖)や、武田信玄(新田次郎)などで、 諏訪家の姫(諏訪御寮人)が、諏訪氏の血を絶やすまいと、信玄の側室になることを承知するくだりがある。 結果として、勝頼が武田氏を継ぎ、滅亡に至るのが、歴史の皮肉となるのだが。

蛇足だが、諏訪御寮人は氏名不詳であり、井上靖版は由布姫、新田次郎版は湖衣姫となっている。


また、諏訪家は、諏訪攻めで滅亡した諏訪頼重の従弟である頼忠がつぎ、諏訪藩主となり明治維新まで続くことになる。