2017年4月30日 奥さんとの温泉旅行の二日目。旅館のロビーからは、芦ノ牧温泉の全景が一望できる。 日曜日と連休の行楽の人出を心配して、早めに旅館を出ることにした。 今日の予定は、会津若松市内、鶴ヶ城と七日町通りの散策がテーマ。 帰りの途中には、米沢の千歳桜を見て行こうと思う。 |
![]() <<米沢千歳桜>> |
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<<芦ノ牧温泉新湯>> 旅館のロビー。大きく広がった窓から、芦ノ牧温泉の全景を望むことができる。珈琲の無料サービスあり。 |
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<<芦ノ牧温泉全景>> この一軒だけ離れた高台にあるため、芦ノ牧温泉の中心部が俯瞰で臨める。 中央には、温泉で最も有名な「大川荘」とその露天風呂が川面に近い方に見えている。 |
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<<鶴ヶ城>> 一週間前と同じ青天のもと、変わらず天守閣はそそり立っていたが、周りの風景は一変していた。 桜の花はすべて落ち、人もいなくなり、GWの日曜の朝というのに、あたりは閑散としていた。 すべては、天気の良い普通の日の朝の景色に戻っている。もっと、日が昇れば、それなりの日曜の人出になるのだろう。 |
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<<鶴ヶ城:麟閣>> かろうじて、茶室麟閣の門の脇にある二本の桜のみが、名残りを惜しむように咲いていた。 |
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<<野口英世青春通り:野口英世青春広場>> 鶴ヶ城から循環バスで、野口英世青春通りまで移動してきた。 ここから、七日町駅まで、青春通りと七日町通りを散策する。 この広場には。野口英世像が置かれている。 碑文 博士野口英世−ロックフェラー研究所員− 1876(明治9年)11月9日 日本猪苗代に生る 1928(昭和3年)5月21日 アフリカ黄金海岸に死す。 科学と人生への献身の故に彼の生涯は喜んで黄熱病の征服の闘いの為に捧げられた。 この銅像は彼の親愛なる市民によって彼の偉大なる業績を記念し、かつ将来の若き世代の人々に彼の示範と激励とを要請すべく 建立されたものである。1957年 <<野口英世青春通り:野口英世青春館>> 野口英世がやけどを負った左手の手術を受けた「会陽病院」の建物である。彼はそのために医学の素晴らしさを感じ、 この地で書生をしながら勉学に励んだという。英世の石としての第一歩を歩き始めた場所である。 今は、二階が資料館、一階が喫茶店になっている。 |
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<<七日町通り:昭和なつかし館>> 昭和30年代の生活を再現した空間。 |
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<<七日町通り:白木屋資料館>> 白木屋は創業300年の老舗の漆器店で、手前の洋風建築が店舗になる。 その右隣(奥)の蔵風の建物が、漆器に関する歴史的資料や、 作業工程や各種技法の展示がされている資料館である。 |
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<<七日町通り:レオ氏郷南蛮館>> 鶴ヶ城を築いた会津藩主で、キリシタン大名でもあった蒲生氏郷の資料館である。 レオは蒲生氏郷の洗礼名とのこと。 |
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<<七日町通り:味噌田楽満田屋>> |
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<<七日町通り:会津新選組記念館>> |
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<<七日町通り:阿弥陀寺御三階>> この外観が三階建ての建物は、御三階と呼ばれ、かつて鶴ヶ城の本丸内にあった。 明治3年にこの寺に移され、ながらく仮本堂として使用された。 |
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<<七日町通り:阿弥陀寺東軍墓地>> 戊辰戦争後、東軍(旧会津藩士等)の死者は西軍の命令で放置されたままとされ、 翌年(明治2年)になって初めて、阿弥陀寺ともう一寺に限って埋葬を許された。 阿弥陀寺には、千三百体にのぼる以外が葬られたという。 また、境内には7級新選組隊士斎藤一(藤田五郎)の墓もある。 |
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<<七日町通り:七日町駅>> JR只見線の駅(会津若松駅の隣の駅)。 会津鉄道会津線(芦ノ牧温泉方面)もこの駅を通る。 こぶりな、こじゃれた感じの駅である。 中には喫茶スペースもあり、七日町通りの終点(始点)にふさわしい感じがする。 |
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<<米沢千歳桜>> 米沢千歳桜(ちとせざくら)、ベニヒガンザクラ、樹齢約700年、樹高約14m、幹回り約6m。 こちらは、ほぼ満開の状態。 田んぼの中に単独で立っている桜。ただ、車を停める場所がなく、なかなか観光には向かないかな。 |
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