2019年6月1日 奥さんが趣味の京都に出かけてしまい、楽しみにしていたライブの抽選にも外れてしまって、 思いっきりドライブに出かけることにした。 前日の夜に宿を探し、格安宿を見つけることができたので、夜明けを待って出かけることに・・。 二年ほど前に若狭湾岸を回っているので、今回はその先、大野勝山方面を回ることにした。 |
![]() <<永平寺:傘松閣の天井絵>> |
![]() |
<<永平寺:門前町>> 吉祥山永平寺は曹洞宗大本山で、寛元2年(1244年)宗祖道元禅師の開山になる。 門前には、いろいろの店が軒を並べている。 私は、町営の駐車場に車を入れたのだが、それぞれのお店が駐車スペースをもっており、 その店で買い物をすると割り引くようなサービスを行っていた。(観光地によくあるケース) お土産屋、食べ物屋、仏具店など。ここの名物は、おろしそばということで、お蕎麦屋さんが多い。 |
![]() |
<<永平寺:参道>> 参拝者の入り口(通用門)は、この左側にある。まっすぐ行くと、勅使門をへて山門に至る。 門前通りとはガラッと雰囲気が変わり、杉の巨木が立ち並び、仏像がところどころに配置されている。 |
![]() |
<<永平寺:通用門>> 参拝者はここが入口。 ここで、参拝料を払い、注意事項を聞いて回廊を回る。 永平寺は座禅修行の道場であり、現在も約160人の僧が日々修行に励んでいるということだ。 ただ、観光客には思った以上に開かれているようで、修行に影響を与えなければ結構何をしてもよい、 といった気持ちを感じる。 修行僧を撮らなければ撮影は自由。回廊から外に出てはいけないなど。 その他は、しごく当然の最低限のルールといった感じ。撮影自由はありがたい。 |
![]() ![]() ![]() |
<<永平寺:中雀門>> 永平寺の伽藍は、応仁の乱最中の文明5年(1473年)の兵火をはじめとして幾たびか火災に見舞われ、 現在の諸堂は、全てが近世以降の建造になる。 トップ写真の傘松閣は、昭和5年(1930年)の建築で、 天井の絵は、伊藤深水、川合玉堂など、全部で144名の当代一流の絵師によって描かれている。 ここ中雀門は天保年間の再建と伝えられる。 <<永平寺:仏殿>> 仏殿は、明治後期の建築。 ![]() 本尊は、中央が釈迦如来、左右に弥勒仏・阿弥陀仏が並ぶ、三体仏である。 |
<<永平寺:山門:四天王像>>![]() =南方増長天= =西方広目天= |
![]() =北方多聞天= =東方持国天= |
![]() |
<<永平寺:回廊>> 七堂伽藍は全てこのような回廊でつながっている。 山際に建てられているため、上り下りがあるのだが、一歩も外に出ることなく、中を廻ることができる。 |
![]() |
<<永平寺:報恩(納経)塔>> この塔は、平成8年(1996年)に建てられた新しい建物で、信者から奉納された写経を収める建物である。 実際には、写経体験に参加することもできるので、体験の費用で、納経することができるそうだ。 |
![]() |
<<永平寺:大数珠>> 長さ50尺(約18m)、重さ50貫(約250kg)。 せんごん、世界平和を祈って、民間から寄贈されたものだそうだ。 永平寺にはほかにも、大庫院(食堂)に長さ4mのすりこぎ棒がある。 |
![]() |
<<永平寺:一葉観音>> 堂内に入らず、境内脇を進むと、寂光苑という庭園にはいる。 最初に目に入るのが、この優雅な感じの観音様、まさに観音様という感じ。 乗っているのは船のようであるが、本来は蓮の葉。 道元禅師が中国から帰朝の折、海が荒れ難破しそうになった。 その時、戦場で観音経を念誦されると、蓮の一葉に乗った観音様が現れ、禅師は無事に帰国することができたという。 |
![]() |
<<永平寺:玲瓏の滝>> この一帯は、先ほどは庭園と書いたが、庭園であり、公園であり、墓地でもあり、境内でもあり、といった不思議な場所。 ここは、元からあった苑池を、平成12年(2000年)に再整備したもの。 違和感もなく、静謐な場所になっている。 永平寺の伽藍内部と違って、無料であるにもかかわらず、人は少ない。ちょっともったいないかな。 |
![]() |
<<永平寺:稚髪像>> 出家を決意した幼いころの道元禅師の像。 幼少の像とはいうものの、像自体はかなり大きい。 |
![]() |
<<永平寺:歴代住職の墓>> 歴代住職の墓の向かいにこの像がある。 苔むす様子に歴史を思わせる。 永平寺の門前のおばちゃんに呼び止められて、おろしそばと護摩豆腐をいただいた。 |
![]() ![]() ![]() |
<<一乗谷朝倉氏遺跡:復元町並>> 一乗谷は戦国時代には朝倉氏の本拠として栄えた土地であった。 この地は三方を山で囲まれ、北は北陸道や美濃街道、朝倉街道、越前府中への道など、 交通の要衝をすぐに抑えられる位置にあった。 朝倉氏の全盛期には、応仁の乱で荒廃した京から、人や文物が流れ込み、北の京とも呼ばれていた。 朝倉氏が織田信長に敗れた後は、柴田勝家が越前一帯を支配したのだが、 彼は本拠を北ノ庄に移したため、一乗谷は荒廃し、土砂に埋もれていった。 昭和42年(1967年)、発掘が開始され、当時の遺構が次々と発見され、かつ史跡公園として整備されることになった。 発掘成果を受けて、平成7年(1995年)に、当時の町並みや侍屋敷、町屋などが復元された。 ほぼ中心部にあたる復元町並の駐車場に車を入れた。 広大な土地が広がっている。 |
![]() |
<<一乗谷朝倉氏遺跡:唐門>> 朝倉館の正門にあたる位置にある。 門自体は、朝倉義景を弔うために、江戸時代中期に建てられた松雲院の寺門だという。 軒下に、朝倉家の紋(三つ盛り木瓜)が」刻まれている。 門の内部が朝倉屋敷跡で、背後の山が一乗谷城ということになる。 |
![]() |
<<一乗谷朝倉氏遺跡:義景墓所>> 地域の村民の建てた祠あとに、寛文3年(1663年)福井藩主松平光通が、建立した。 なお、この松平光通は、徳川家康の次男結城秀康の孫にあたる。 |
![]() |
遺構の発掘に伴い発掘された、石像や墓石等が並べられている。 ただ、打ち捨てられていたのではなく、壊されたような跡が見える。 朝倉氏の滅亡に伴って破却されたのだろうか。 |
![]() |
<<一乗谷朝倉氏遺跡:湯殿跡庭園>> 現在は枯れ池であるが、大きな石組を生かした作りで、裏山からの導水路跡も見つかっており、 戦国期には水をたたえていたと思われる。 他にも、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、朝倉館跡庭園などがあるが、庭園跡ということで、 一面の原が広がっているだけ。日差しが痛い。真夏でなくてよかった。 |
![]() |
<<一乗谷朝倉氏遺跡:義景館跡>> 裏山からみた義景館の全景。 中央左の木立の向こうが唐門である。 |
![]() |
<<一乗滝>> 一乗谷朝倉遺跡の中を流れる一乗谷川の上流に、一乗滝がある。落差12m。 滝の前面にしめ縄が張られている。 言い伝えでは、昔、泰澄禅師が、滝の上流に滝水山浄教寺を開山し、白山大権現を祀ったという。 滝の水音だけが響き、すっかり暑さを忘れるときとなった。 水辺まで降りることができるため、危うく、携帯を落としてしまいそうになった。 |
![]() |
|
![]() |
<<佐々木小次郎像>> ここ一乗滝で、佐々木小次郎は秘剣「つばめ返し」を編み出したという。 滝への道の入り口に、小次郎の像がある。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
<<みらくる亭>> 前日の夜に予定を決め、もうビジネスホテルしか空いていないのではないかなどと思っていたのだったが、 都合よく、安価で温泉につかれる宿が見つかった。 山の際に作られた宿で、建物に入ってから、山に登っていく感じで、渡り廊下が広がっている。 複雑で、地図がないと部屋にたどり着けない。 一人旅なので、布団が敷けるスペースがあればいいのだが、通されたのは十畳の廊下付き、次の間付きの角部屋という、 贅沢な部屋で、かえって寂しくなるようだった。 周囲には、コンビニも含めて店らしい店がなく、食事なしではきつい。食事つきにして正解だった。 |