2020年7月23日
 オリンピックのおかげで、7月に思わぬ連休ができた。 4月5月はさすがに泊りがけでの旅行は控えざるを得ず、近郊で我慢していた。 でも欲求抑えがたく、 オリンピックの延期が決まると、この頃には収まっているだろうとの淡い期待をもって予定を立て始めた。

 幸いなことに県外への移動自粛も終わり、都会地でなければ安心できそうだったので、予定通り旅行することができた。

鹿瀬ダム
<<滋賀県高島:メタセコイヤ並木>>

奥琵琶湖パークウェイ

奥琵琶湖パークウェイ

奥琵琶湖パークウェイ

奥琵琶湖パークウェイ

<<奥琵琶湖パークウェイ:葛籠尾崎展望台>>
敦賀インターで高速を下り、下道で琵琶湖の北端を目指す。 奥琵琶湖パークウェイは、琵琶湖の最北端、湖に突き出た葛籠尾(つづらお)半島を巡る 全長18.8kmのドライブコースである。

冬季は閉鎖されるが、春には樹齢20-30年、3,000本以上の桜の木が、沿道に咲きほこる。 さぞかし、良い眺めになることだろう。ただ車の渋滞も心配になる。


計画では、西浅井町大浦から入って、葛籠尾崎展望台・月出峠展望台を経て、西浅井町岩熊に抜けることを考えていたのだが、 先日の雨で葛籠尾崎展望台から先が通行止めになっており、残念ながら、ここまでで、来た道を引き返すことになった。


この地(葛籠尾崎展望台)は、恋人の聖地ともなっている。 この地方特有の「丸小船」の形をしているという。 ハート形の穴の中の格子状の網に、赤いリボンを結んでいる。

ここから竹生島にかけての海中には、葛籠尾崎湖底遺跡という謎の遺跡がある。 地盤沈下や水位の上昇では説明のつかないという意味で謎の遺跡といわれる。 縄文から平安時代にかけての土器などが発見されている。


葛籠尾崎からは、2km先に竹生島が浮かんでいるのだが、木が生茂っていて望むことができない。 付近を廻ってみたのだが、結局ここからは見えないようだ。


葛籠尾崎には、古墳(鉄穴(じんつぼ)古墳)遺跡がある。 淳仁天皇の母及び后の墓所と伝わっている。

淳仁天皇は47代の天皇。祖父は天武天皇、父は舎人親王。46代孝謙天皇から譲位を受け践祚した。 この間、弓削道鏡の暗躍や恵美押勝の乱などに巻き込まれ、孝謙天皇から淡路(淡路島)に追放され、この地で病死する。 実際には、暗殺されたと推定され、葬儀も行われていないという。

葛籠尾崎の、この一帯では、ふるくから淳仁天皇伝説が残り、宮や陵の伝承地が存在する。

また、ここから竹生島にかけての海中には、葛籠尾崎湖底遺跡という謎の遺跡がある。 地盤沈下や水位の上昇では説明のつかないという意味で謎の遺跡といわれる。 縄文から平安時代にかけての土器などが発見されている。

メタセコイヤ並木

メタセコイヤ並木

<<メタセコイヤ並木>>
高島市マキノにあるメタセコイヤの並木道。 全長2.4km、ほぼ一直線の県道の両側に、約500本のメタセコイヤの巨木が整然と並んでいる。 車を運転していて、この道に入ると、その美しさに感激し、速度を緩めてしまう。

マキノピックランドの駐車場に車を停め、並木道脇の歩道を歩く。

白髭神社

白髭神社
<<白髭神社>>
白髭神社は、琵琶湖西岸のほぼ中間地点にある。湖に浮かぶ鳥居が目印になる。 道路を挟んで、湖の反対側に社殿と駐車場がある。

今は、社殿のところでは道路横断が禁止されているため、湖に浮かぶ鳥居に近づくことはできない、 社殿の側から道路越しに写真を撮ることしかできない。 むしろ、湖側から水上バイクに乗って、見物客が来ている。



祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)。創建は、第11代垂仁天皇の御代といわれる。 さすが、近畿圏では、時代の古さが違う。

白髭神社

<<白髭神社:拝殿及び本殿>>
本殿は慶長8年(1603年)、拝殿は、1879年(明治12年)の造営。 造営時期は異なるが、結果として合わさって、権現造りのような形になった。

日吉大社
<<日吉大社:西本宮>>
この地、日枝の山(ひえのやま)に坐す大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀ったものを原初とする。 大山咋神は、現在、東本宮の祭神として祀られており、また、日枝の山は、現在の比叡山とされる。

西本宮の、祭神は大己貴神(おおなむちのかみ、大国主神と同じ)。 大津京遷都の翌年(668年)、大津京鎮護のため大和から大己貴神を勧請し、新たに西本宮を建てて祀ったという。

日吉大社

日吉大社

<<日吉大社:西本宮楼門>>
最澄が、延暦7年(788年)、比叡山に延暦寺を建立する。 その後、延暦寺の拡大とともに日枝社との神仏習合がすすみ、 日枝社の神は、唐の天台宗大本山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって、山王権現と呼ばれるようになる。

平安時代中期以降、延暦寺の大衆と日吉社の神人が日吉社の神輿を担ぎ出して、都に強訴するようになった。 神輿振り・強訴は、室町時代にかけ、40数回に及ぶ。

元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼打ちにより、日枝社もすべて灰燼に帰した。

<<日吉大社:西本宮本殿>>
その後、西本宮は天正14年(1586年)に再建。
本殿は国宝。


日吉という社名は、かつては、「ひえ」と呼ばれていたが、戦後は「ひよし」に統一されているという。

日吉大社

<<日吉大社:山王鳥居>>
鳥居の上部に三角形の屋根がのった形をしており、仏教と神道の合一を表しているという。山王信仰独特の鳥居である。

日吉大社
<<日吉大社:日吉三橋大宮橋>>
豊臣秀吉の寄進によって建造された、日本最古の石橋。

大宮橋は、最も手の込んだ造りをしており、西本宮へ向かう参道に掛けられている。

日吉大社
<<日吉大社:日吉三橋走井橋>>
大宮橋のすぐ隣にかかっている。大きく反り返った枝が、石橋の上を覆い、特徴的な形をしている。

日吉大社

<<日吉大社:日吉三橋二宮橋>>
東本宮に向かう参道に掛けられている。

日吉大社
<<日吉大社:東本宮楼門>>
駐車場からだと、回るコースが変わってくる。 危うく、外に出てしまうところだったが、何とか、東本宮の楼門にたどり着けた。

日吉大社

<<日吉大社:東本宮・樹下宮>>
東本宮も国宝。 左は樹下宮本殿、右は樹下宮拝殿。正面が東本宮拝殿、その奥に本殿。

浮御堂
<<浮御堂>>
満月寺、長徳年間(995年頃)に源信僧都の手によって建立され、湖上交通の安全と衆生済度を願ったことに始まる。 その後、一時荒廃したが、江戸時代になってから大徳寺の住持らによって再興され現在に至る。 現在のお堂は、昭和12年(1937年)の再建。

山門はちょっと異国風で、龍宮造りという。江戸後期の建造。

浮御堂

浮御堂

浮御堂は、近江八景で有名な「堅田の落雁」に描かれている。

浮御堂

浮御堂


浮御堂脇の水中に、何やら遺跡のようなものがある。 後で調べてみると、高浜虚子の句碑であるという。
「湖も 此辺にして 鳥渡る」

昭和27年(1952年)に建てられたが、平成24年(2012年)、この句碑に水上バイクが衝突し、根元から折れてしまった。 2年後に修復再現され、事故を起こさないよう、左右に赤い標識がつけられたという。

伊豆神社
<<伊豆神社:幸福を呼ぶ石>>
浮御堂のそば、歩いて5分もかからないところに、伊豆神社というお社がある。 その境内の片隅に、幸福を呼ぶ石という、パワースポットがある。

この石をさすると幸せになれる、恋しい人に想いが伝わるとされている。