2020年9月20日 夜、雨が降ったようだ。道路が濡れている。少し顔にもあたるようだ。 丁度、秋の長雨の時期に重なったらしく、天気予報でも、快晴のマークはない。 お寺参りに、雨は関係ないのだが、傘はささないでいたい。 今日は、太龍寺から室戸岬まで向かう。都市部から離れ、寺間の距離も長くなる。 徳島の遍路は今日でおしまい。室戸岬から先は高知県になる。 |
![]() <<太龍寺:多宝塔>> |
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<<太龍寺ロープウェイ>> 太龍寺へは、歩いて登る方法、車で行く方法、そして、ロープウェイで登る方法の三通りある。 歩いて行く場合、鶴林寺から6.7km、上り口からでも4.2kmの山道になる。 車で行く場合、駐車場はあるのだが、そこから30分近く、山道を登ることになる。 結局、ロープウェイが多数派となる。 ゴンドラは、101人乗り。所要時間約10分で、山頂の太龍寺駅に到着する。 |
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<<太龍寺ロープウェイ:那賀川と鷲の里駅>> 山麓にある鷲の里駅は、那珂川が蛇行している内側の領域にあり、道の駅鷲の里に併設されている。 太龍寺ロープウェイは、全長2,775m、高低差508m、長さでは西日本最長である。 中間に立っている支持鉄塔が2基あり、そのうちの1基は、高さ42mで世界最大である。 |
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<<太龍寺ロープウェイ:山を越え>> 山を二つ越え、川を越える珍しいロープウェイである。 正面に見える山(山肌の木に筋のようなものがついている)の向こう側に、太龍寺駅がある。(山を越すということ) |
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<<太龍寺ロープウェイ:舎心嶽の大師像>> 断崖の岩場の上に、高野山に向かって合掌している大師像がある。 弘法大師が当地で修業中、19歳頃のこと、この地で100日間の修業をされたという。 大師入山1200年を記念して、平成5年(1993年)にブロンズで作成された。 太龍寺から山道を伝って、15分(600m)ほどのところにある。 |
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<<太龍寺ロープウェイ:太龍寺駅>> 駅に到着すると、下りた乗客が一斉にお寺に向かっていく。 |
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<<太龍寺(たいりゅうじ):ロープウェイ口>> 四国霊場第21番札所 舎心山太龍寺。 ロープウェイから降りると、石段が目の前に。 100段近い石段を登りきると、本堂の正面に出る。 いきなり本堂前に出てしまうので、裏口からお邪魔したような感じになる。 つまり、仁王門が一番奥になる。 歩いて登るよりははるかに楽なのだが、苦労なしにはお参りさせないという、強い意志を感じる。 |
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<<太龍寺:本堂への石段>> 本寺は、太竜寺山(標高600m)の山頂近くに位置し、本堂は標高505m付近の高さにある。 なお、鶴林寺(20番札所)は、鶴林寺山(標高516m)の山頂近く、本堂は標高495mの高さにある。 連続する二つの寺が、並んだ二つの山にある。隣にもかかわらず、一旦、山を下りて上る行程になる。 <<太龍寺:本堂>> 延暦12年(793年)、桓武天皇の勅願により堂塔が建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像を刻して安置し、開創した。 険しい山上にあるにもかかわらず、天正年間(1573年-1592年)の兵火で焼失して衰退した。 阿波蜂須賀家の保護によって再興するも、戦後は、交通の便の悪さから、時代に取り残されていた。 しかし、平成4年(1992年)に太龍寺ロープウェイが完成することにより、容易に参拝できるようになった。 嘉永5年(1852年)建立。 本尊は虚空蔵菩薩。 |
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<<太龍寺:多宝塔>> 文久元年(1861年)建立。 本堂と大師堂の間の小高い丘の上に多宝塔が建っている。 かなりの人は、ここをスルーして大師堂に向かっている、 なお、かつて太龍寺には、貞享元年(1684年)に建立された三重塔があったが、 昭和28年(1953年)に、現四国中央市興願寺に移築されている。 |
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<<太龍寺:大師堂>> 大師堂の裏には大師の御廟があった(高野山みたい)。 「西の高野」と言われる所以か。 ![]() 大師堂は、明治10年(1877年)建立。 <<太龍寺:鐘楼門>> 本堂から大師堂を回り、鐘楼門を抜けて納経所まで来て、これが山門かと思いここから戻ることにした。 でも、実は、その先に山門(仁王門)があり、そこが歩き遍路の場合の入り口であった。 鐘楼門は、明治36年(1903年)建立。 |
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<<太龍寺:参道>> 納経所からロープウェイ駅に向かう道。 山側には、城郭を思わせる石垣が連なり、崖側には古い立木の切り株様のものが並んでいる。 すでに朽ち果て苔むしているが、根元だけ残しているのは、意図してのものなのだろうか。 |
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<<平等寺(びょうどうじ):仁王門>> 四国霊場第22番札所 白水山平等寺。 ![]() ![]() ここの、仁王様はマスクをしていた。 |
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<<平等寺:鐘楼と石段>>![]() 鐘楼の鐘の下に、小さな大師像(20cmほど)が置かれていた。 <<平等寺:本堂>> 弘仁5年(814年)、弘法大師によって開創された。 同年、四国巡錫を始めた大師は、当地に至り、瞑想を行うと、薬師如来の姿が浮かんだ。 当地で井戸を掘り、その乳白色の水で身を清め、自ら薬師如来を刻し、本尊として安置したという。 天正年間(1573年-1592年)の兵火で焼失し、享保年間(1716年-1736年)になって再興した。 本堂は、元文2年(1737年)再建。 本尊は薬師如来。 <<平等寺:大師堂>> 大師堂は、文政7年(1824年)建立。 |
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<<平等寺:本堂からの景色>> 遠くの山が、大師が横になっているような形に見えることから、涅槃大師という。 |
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<<薬王寺(やくおうじ):仁王門>> 四国霊場第23番札所 医王山薬王寺。 ![]() ![]() |
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<<薬王寺:本堂>> 仁王門から、女厄坂33段、男厄坂42段を上って、本堂に着く。 聖武天皇(在位724年-749年)の勅願によって行基が開創した。 弘仁6年(815年)には、平城上皇の勅命によって、弘法大師が本尊として薬師如来を彫り再興した。 本堂は、明治41年(1908年)に再建。 本尊は薬師如来。 |
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<<薬王寺:大師堂>> 石段には各段ごとに1円玉が置かれている。 何でも、石段の下には「薬師本願経」が書かれた小石が埋めてあるとかで、一段ごとにお賽銭をあげながら上るのだという。 踏まないように苦労しながら上る。 |
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<<薬王寺:境内>> 奥に見える塔は、瑜祇塔(ゆぎとう)という。 昭和38年(1963年)の建立。 |
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<<薬王寺:境内からの景色>> お参りする際に、数珠がないことに気付いた。 車に戻っても見つからない。 どうやら、前の平等寺で置き忘れてきたらしい。 お寺に連絡を取り、届けられていることを確認して一安心。 一旦、平等寺まで戻ることにした。約1時間のロス。 まったく、何が起こるかわからない。 ここで、徳島県はおしまい。次は室戸岬、高知県に入る。 |
※注釈※
徳島の各札所では、天正年間(1573年-1592年)の兵火で堂宇を消失した寺が多い。 はたして、天正年間の兵火とはどのようなものだったのだろう。 阿波の地は、元々細川氏の領地であったが、応仁の乱以降の混乱により、細川氏が没落し三好氏が台頭する。 天正3年(1575年)、土佐一国を支配下に置いた長曾我部元親は、四国全土の統一を目指した。 三好氏の衰退も相まって、天正8年(1580年)までに、ほぼ讃岐阿波全土を平定し、伊予も天正13年(1585年)までに平定した。 この間、軍事要塞化していた各寺が、長宗我部氏の手によって焼き払われたという。 影響は、徳島で13寺/23寺、愛媛で4寺/26寺、香川で11寺/23寺に及ぶ。 |