2021年11月20日
 コロナ禍も一息ついたようで、医療ひっ迫の話も聞かれなくなった。 県外移動の自粛も解けたので、今がチャンスとばかりに、夫婦で出かけることにした。
 伊豆半島は、空白地域の一つ。近いようで、遠いところだった。 本来は、半島で二日くらいほしいところだが、全体で二泊三日ということで、多少、訪問先を減らして、回ることにした。 また、奥さん用に、道中の途中に、身延山と久能山(日蓮と家康)を入れてみた。

身延山久遠寺
<<身延山久遠寺:棲神閣祖師堂>>

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

<<身延山久遠寺:総門>>
文永11年(1274年)、佐渡配流を許された日蓮は、 当地の地頭で、信者でもあった南部実長の招きを受け身延山に入り庵を設けた。 この年が、身延山開闢の年とされる。

弘安4年(1281年)に、旧庵を廃し、本格的に堂宇を整備して、身延山妙法華院久遠寺とした。 身延山に入った後は、山を下りることもなかったが、弘安5年(1282年)体調が悪化し、常陸の国に移る途中、武蔵の国で入滅した。

総門は車の中から。 寛文5年(1665年)造営。明治8年(1875年)の大火の際にも罹災をまぬかれている。


<<身延山久遠寺:三門>>
総門を過ぎたところで、川沿いの道に誘導される。どうやら、上りと下りで別の道になっているらしい。 本堂下の駐車場まで道が続いているのだが、途中で車の動きが停まってしまった。

先の予定もあるので、本堂下をあきらめて、門前町の中ほどの町営駐車場に入れることにした。 どっちみち、お昼は門前町で摂ると決めていたので、問題はない。 歩いて三門前へ。


大きな三門で、日本三大山門の一つに数えられる(他は南禅寺と知恩院)。
明治40年(1907年)の再建。

身延山久遠寺

身延山久遠寺

身延山久遠寺

<<身延山久遠寺:菩提悌>>
三門から本堂へ上る石段。
高低差104m、287段。
なんと、1段当り30cm以上ある!

段数だけ見ると、大したことのない数字なのだが、一段一段が段差があり、急角度であるため、数字以上の難行となる。


奥さんは上ると言うと思っていたのだが、段差には驚いて、自信がなさそう。 私は、手前引くこともできず、お付き合いをすることに。 踊り場ごとに休憩をとり、息を整えながら上る。まあ何とか恥をかかずに済んだ。


他に、本堂へ至るルートは、 菩提悌の脇をジグザグに上る男坂、 大きく山を迂回して甘露門に至る女坂がある。 いずれにしても、苦しい道であることには違いがない。 苦しいからこそ、登り切れば涅槃に至ることができる。菩提悌とはそういう道である。


上るのは、まだ体力勝負で行けるのだが、下りは恐怖感がまさる。 さすがに、帰りは男坂を下ることにした。

身延山久遠寺

身延山久遠寺
<<身延山久遠寺:五重塔>>
菩提悌も残りわずかと言うと頃になると、五重塔が見えてくる。

平成21年(2009年)の再建ということなので、まだ新しい。 すべて国産の木材を使用し、400年前の元和の塔を復元したのだという。


五重塔の構図には悩みが尽きない。 素晴らしい建築物であるだけに、つたない構図で満足のいくものができない。 下から見上げる構図が多くなる。 いつものことで、今回もその構図で撮ってしまった。

なるべくなら、下のように引きの構図で撮りたいのだが、境内配置などで、いつもうまくいくわけではない。 今回は割とましなものだったのではないか。 右に映り込んでいるのは、祖師堂の軒下。

身延山久遠寺

<<身延山久遠寺:本堂>>
伽藍は、明治8年(1875年)の火災により焼失しており、多くの建造物はその後の再建になる。

本堂は、昭和60年(1985年)の再建。

本堂内陣は、日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木像で表した、立体曼荼羅となっている。

天上の八方睨みの龍は、加山又造の作である。

身延山久遠寺
<<身延山久遠寺:棲神閣祖師堂>>
日蓮を祀る。

明治14年(1881年)、江戸時代に廃寺となった江戸感応寺のお堂を移築・再建した。

このお堂は、他のお堂に比べて一段と絢爛豪華である。 建造時期によるものなのか、なぜなのだろう。

身延山久遠寺
<<身延山久遠寺:拝殿>>
背後に日蓮の御真骨を収める御真骨堂がある。

身延山久遠寺

<<身延山久遠寺:仏殿>>
一番立派そうな建物。
昭和6年(1931年)の再建。

本堂から仏殿前、背後で渡り廊下がつながっており、本堂で靴を脱いでから、仏殿まで至ることができる。 お堂ごとに、いちいち靴を脱がなくてもよいので便利。 できれば、靴をもって移動し、元に戻らなくてもよいようにしたらよいのに。

日本平

<<日本平:久能山ロープウェイ>>
身延山を後にして、久能山へ行くために日本平に向かう。 到着後、日本平からの富士山は後回しにして、混み合うこと必至のロープウェイへ。

久能山への行き方は、海岸沿いから1159段の石段を上る方法と、日本平からロープウェイで渡る方法がある。

今回は、時間面と体力面と考えて、ロープウェイで行くことにした。 ロープウェイは、混雑しているせいか、ピストン運転で、思いのほか早く乗ることができた。

久能山東照宮
<<久能山東照宮:楼門>>
ロープウェイで行っても、最後の100段ほどは石段を上らなくてはならない。

久能山は、徳川家康が、死後最初に葬られたところとして知られる。 久能山東照宮は、ミニ日光東照宮と言った感じで、社殿の彩色等に、共通点が見られる。

この門は、日光でいえば、陽明門にあたる門になる。

久能山東照宮
<<久能山東照宮:鳥居>>
久能山は、太古の昔、日本平とともに海底の隆起によって形成されたものである。 その後の浸食作用等によって硬い岩盤のみが残り、孤立した山となった。 したがって、日本平とは、標高も同等で、直線距離も1kmほどしか離れていない。

それでも、その間は深い谷が遮っているため、ロープウェイが開通するまでは、急な石段を上ってくるしかなった。 今でも、神社の関係者は、毎日、石段を上ってくるのだそうだ。

久能山東照宮

<<久能山東照宮:唐門>>


久能山東照宮
<<久能山東照宮:五重塔礎石>>
そう言えば、日光東照宮にも五重塔はあった。

久能山東照宮の五重塔は、三代将軍家光の命によって作られたが、明治初年の神仏分離の際に破却されたという。 日光東照宮の五重塔は、大丈夫だったのだろうか?

久能山東照宮
<<久能山東照宮:拝殿・石の間・本殿>>
唐門の内、拝殿・石の間・本殿が並んでいる。 境内が狭いので、なかなか全景をとらえられない。 目の前にあるのが拝殿、奥に本殿が少し見えている。石の間はその間。



久能山東照宮

<<久能山東照宮:拝殿軒下>>
日光とは違って、拝殿の中に入ることはできない。

久能山東照宮
<<久能山東照宮:廟所参道から本殿を望む>>
拝殿の脇から廟所に至る道がある。 拝殿や、本殿を上から見下ろす形になる。

久能山東照宮

<<久能山東照宮:神廟>>
家康は、死後ここに埋葬された。1年後、日光に移されている。 早い話、ここには何も埋まっていないのかな?

日本平
<<日本平:夢テラス>>
日本平に戻って、ゆっくりと富士を眺める。 雲の上に、山頂が見える。結局、今回の旅の間に、はっきりと富士が見えたのはここだけだったとは。

日本平
<<日本平:富士山>>
山頂だけ拡大してみた。
日本平
富士は左手。右手の海岸は、三保の松原。

日本平

<<日本平:赤い靴の子の像>>
こんなところに、赤い靴の子の像があった。小樽に行った時も見かけたような。
それがこちら。→

モデルとなった女の子は旧清水市の出身で、北海道に渡り、現地の宣教師にもらわれたということだ。 意外なつながりがあるものだ。横浜や函館など全国七カ所にあるそうだ。

小樽

富士山
<<ホテルへ>>
ホテルへ向かう道。 前方に、富士の影が・・。