2021年11月22日 雨が近づいている。大雨の予報が出ている。 朝から大雨を覚悟していたのだが、朝になってみると、何とか昼頃まではもちそうな感じである。 とはいいつつ、帰り道のことも考えねばならず、富士山周辺はあきらめて、午前中で切り上げることにした。 伊豆は修善寺温泉を訪ね、帰り道の途中で、韮山の反射炉と三嶋大社をチョイスした。 修善寺温泉は、紅葉の盛りらしい。 |
![]() <<修善寺温泉>> |
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<<修善寺温泉:赤蛙公園>> 午後の予定をキャンセルしたので、とりあえず急ぐ必要はなくなったのだが、 生来の貧乏性のせいで、いつもとほぼ同じ時間に宿を出て、9時前には修善寺温泉の駐車場に車を入れた。 風の径から赤蛙公園へ。 作家島木健作が、短編「赤蛙」の着想を得た場所だという。 |
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<<修善寺温泉:楓橋>> 楓橋を渡って、竹林の小径に至る。 朱塗りの小さな橋である、 修善寺温泉は、修善寺を中心として、修善寺川(別名桂川)の周りに開けている。 現在、修善寺川に沿って遊歩道ができ、情緒を味わうことができる。 |
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<<修善寺温泉:竹林の小径>> 修善寺川に沿う遊歩道。楓橋から桂橋に至る。 |
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<<修善寺温泉:修禅寺>> 修善寺温泉の名の由来となった修禅寺。地名は「善」の字であるが、寺名は「禅」を使う。 正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」という。 当初は「桂谷山寺」といったが、鎌倉時代には「修善寺」と呼ばれていた。 鎌倉中期に臨済宗に改宗した際に「善」の字を「禅」に改めたとの説がある。 大同2年(807年)、空海によって開かれ、周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺とされた。 当初は真言宗であり、その時代が400年以上続く。 建長年間(1249年-1255年)には、蘭渓道隆によって臨済宗に改宗した。 その後、戦乱や火災によって伽藍は荒廃した。 延徳元年(1489年)、隆渓繁紹の手によって再興され、曹洞宗に改宗した。 隆渓繁紹は、当時、伊豆の国を治めていた伊勢新九郎(北条早雲)の、叔父にあたる。 その後、文久3年には、再び火災により伽藍や宝物の多くを焼失したが、 明治13年(1880年)から明治20年(1887年)にかけて本堂などを再建した。 現在の本堂は、明治16年(1883年)に再建された。 歴史の舞台としては、鎌倉幕府2代将軍源頼家がこの寺に幽閉され、その後殺害されている。 また、源頼朝の弟である範頼も、当寺で殺害されたとのうわさもある。 本堂の御本尊は大日如来坐像で、体内の墨書から、慶派の仏師実慶の作とわかった。 元久元年(1204年)に殺害された頼家の菩提のため、七回忌に当たる承元4年(1210年)に母政子が作らせたという。 修禅寺のもみじも、赤く染まり、観光客や泊り客でにぎわっている。 手水舎の水に手を触れると、熱い。温泉地だけあって、手水舎の水も温泉になっている。 |
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<<修善寺温泉:独鈷の湯>> 修善寺温泉発祥の地と言われる。 空海が修禅寺を開いたとき、この川で病父の体を洗っている少年の姿に感じ入り、 独鈷杵で地を突いて温泉を噴出させたと言われる。 現在も、この川の中州にある東屋の中に、慎ましく湧き出でているという。 入浴禁止ではあるが、近づいて手を入れることはできる。 |
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<<韮山反射炉>> 韮山反射炉は、静岡県伊豆の国市にある。 実際に鋳鉄の溶解が行われた反射炉としては、世界で唯一現存する遺構である。 世界遺産に登録されたこともあってか、雨がぱらつく中、多くの観光客が訪れていた。 希望すれば数人の単位で、無料のボランティアガイドがつくようだ。 当地の代官であった江川英龍は、天保11年(1840年)のアヘン戦争に危機感を覚え、 海防政策の一環として、銃砲の製造に必要な反射炉の建設を幕府に建議した。 嘉永6年(1853年)のペリー来航を受けて、江戸内湾への台場築造と、反射炉の建造が決定された。 江川英龍は、炉の完成を見ることもなく、安政2年(1855年)病死するが、 息子の英敏が後を受け継ぎ、安政4年(1857年)、完成した。 その後、元治元年(1864年)まで、幕府直営として、反射炉本体で西洋式大砲の鋳造が行われた。 その後、一時江川家の私営となるが、明治41年(1908年)に韮山村有志が敷地を買い取り、陸軍に献納した。 大正11年(1922年)に国の史跡、昭和7年(1932年)には韮山村(当時)が管理団体となり、 現在は伊豆の国市が維持管理を行っている。 反射炉とは、熱を発生させる燃焼室と、鋼材を入れて精錬する炉床が、分かれていることが特徴で、 燃焼室で発生した熱を、天井や壁に反射させ、炉床に熱を集めて精錬を行う。 燃料が直接鋼材にあたることがなく、高温でバラツキなく熱せられるため、高品質の製鋼が可能になった。 なお、煙突の外側の鉄骨は、後世の補強材と言うことだ。 |
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<<三嶋大社:大鳥居>> 最後の目的地、三嶋大社へ。 大鳥居前は、東西に旧東海道、南に旧下田街道が通じる、交通の要衝である。 まさに、伊豆半島への玄関口にあたる。 「三嶋」は「御島」であり、伊豆諸島を指すという説もある。 |
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<<三嶋大社:神池と総門>> 三嶋社の創建年代は不明であるが、奈良時代の書に記載が見られる。 位階もだんだん進んで、延喜式にも載り、伊豆国一宮に位置付けられた。 源頼朝は、三嶋社に戦勝祈願を行い、代々の将軍も厚く信仰した。 室町時代にも、武家からの戦勝祈願を受けることが多く、大いに栄えた。 戦国時代には北条氏、その後は江戸幕府の庇護を受け、明治維新後も官幣大社に列した。 |
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<<三嶋大社:末社厳島神社>> |
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<<三嶋大社;神門>> 嘉永7年(1854年)に発生した安政東海地震によって社殿のほとんどが倒壊した。 現在の社殿のほとんどはそれ以降の再建になる 慶応3年(1867年)の再建。 |
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<<三嶋大社:拝殿・幣殿・本殿>> 慶応2年(1866年)の再建。 祭神は、 大山祇命 [おおやまつみのみこと] 積羽八重事代主神 [つみはやえことしろぬしのかみ] 二柱を総じて、三嶋大明神とも称される。 |
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<<三嶋大社:金木犀> 樹齢1200年、樹高10m。老木である。 |