2022年11月24-25日
 一番の目的が備中松山城。現存十二天守の一つで、これで全城を制覇することになる。 再建天守とは異なる、昔の建物ならではの、雰囲気がたまらない。 多分、この城が一番行きにくいところだったのではないか。
 前日は雨だったが、この日は晴天に恵まれた。山登りがあるので、晴れてくれないと困るところだった。 備中松山城も竹田城も、天空の城で有名なところで、夕方の山登り、朝の展望台、と計画を立てた。 あとは、運に恵まれるかどうか・・。

備中松山城
<<備中松山城:大手門跡>>

備中松山城
<<備中松山城:城見橋駐車場>>
まずは、城見橋駐車場へ。

閑散期は、ここから先の、ふいご峠まで車で行けるのだが、この日は車はここまで。
ふいご峠まではシャトルバスで行くことに。

備中松山城


備中松山城

<<備中松山城:ふいご峠駐車場>>
備中松山城の最寄駐車場。ここから先は、歩いて登らなければならない。 この日は、車で来ることができないので、季節のわりに閑散としている。

備中松山城は、岡山県高梁市にある臥牛山(標高487m)の山頂から南の稜線にかけて、遺構が残っている。

ちなみに、城見橋駐車場は標高196m、ふいご峠駐車場は標高291mの地点にある。

備中松山城

備中松山城

備中松山城

<<備中松山城:天守への道>>
中ほどまでは、車も通れるような舗装された道なのだが、そこから先は段のある山道になった。

所々、見晴らしの良い所では、城見橋駐車場や、山並みを見下ろすことができる。



色づいた木々も目に優しい。 さらに、多くの、城主の立て札が、心を和ませてくれる。

備中松山城
本日の登城、大儀であった

備中松山城
よくぞ、まいられた



三大山城(岐阜県岩村城・奈良県高取城・備中松山城)の一つであり、 現存天守の中で唯一の山城ということで、きつい山道が続く。

15分ほど山道と苦闘したのち、目の前に立ちはだかるような、巨大な石垣と岩肌が現れる。

備中松山城
<<備中松山城:大手門跡>>
大手門跡は、そそり立つ巨岩と、その上に載る厩曲輪の石垣が圧巻の景色を見せている。

大河ドラマ「真田丸」のオープニングの背景に使用された。 岩山の上に載る城郭のイメージが真田家のイメージに近かったのだろうか。

備中松山城
<<備中松山城:三の平櫓東土塀>>
大手門を入ってすぐ三の丸の区画に入る。 左側に狭間の空いた土塀が続く。 これも、現存の土塀で、重要文化財に指定されている。

備中松山城

<<備中松山城:本丸>>
左:五の平櫓、右:六の平櫓。

どちらも、再建されたものであるが、天守と一体となって、本丸の景色を作り上げている。

備中松山城

備中松山城

備中松山城

<<備中松山城:天守閣>>
二重二階、高さは11mほどで、現存天守の中では最も小さく、最も高い所に位置する。 しかし、小さいながらも、形の取れた、カッコいい天守である。

西面(左側)の付け櫓と、正面の唐破風出窓などが、アクセントになっている。

また、大手門からの石垣の重なりが、小ささを感じないし、二の丸から眺められる天守は、存在感が半端ない。


臥牛山は、大松山、天神の丸、前山、小松山の四つの頂を持つ。 備前松山城は、小松山(海抜430m)の山頂に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配されている。 他の峰にも遺構は残されている。


仁治元年(1240年)、秋葉氏によって大松山に築かれた中世城郭がはじまり。 元弘年間(1331年頃)には、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。

城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷し、戦国時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった。 その後、三村氏と毛利氏の争いが続き、最終的に毛利氏の領有となった。

江戸に入り、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主板倉氏が明治維新を迎える。


明治6年(1873年)の廃城令により商家に安価で売却されたが、あまりにも不便な場所にあったため放置されていた。 昭和初期に、当地を調査した記録が刊行されたことにより、修復の機運が高まった。

その際に残っていたのが、天守・二重櫓・三の平櫓東土塀であり、重要文化財に指定されている。

備中松山城
<<備中松山城:天守閣二階>>
現存天守特有の、暗い室内、急で狭い階段。

ここは、戦時にのみ使用される天守であり、政務を執る場ではないことがわかる。

備中松山城
<<備中松山城:装束の間>>
天守閣に籠った際の藩主の居室。

床下には石を敷き詰め、スキのないようになっている。 戦に敗れたときには、城主一家の死に場所になる。

備中松山城

<<備中松山城:二重櫓>>
この櫓も現存の建物である。

天守閣の裏に見捨てられたように建っている。 前後に二か所の出入り口がある。

備中松山城

備中松山城

<<備中松山城:松山城展望台>>
雲海をねらって朝一番に雲海展望台へ。 向かう途中から霧の中に突入。 展望台は霧に包まれて、何も見えず。

しようがないので影のような場面ばかりを写真に。

備中松山城
運が良ければこんな景色が・・


なお、その後、時間経過とともに霧が沈んで、雲海になったということだ。 あと、1時間待っていればということらしいけど、後の予定を考えるとそういう訳にはいかないよね。

津山城跡

津山城跡

津山城跡

<<津山城跡>>
竹田城に向かう前に津山城に。

天守閣がないとはいえ、平山城(標高141.6m・比高50m)として名をはせる城で、紅葉の名所でもある。

入口の広さ、石垣の高さなど、壮大な近代城郭を思わせる。

岡山県の北東部、津山盆地の中にある丘陵(鶴山)上にあり、城跡は鶴山公園として整備され、市有地となっている。


嘉吉年間(1441年-1444年)に、山名氏の一族である山名忠政によって築かれた城がはじまりである。

その後、廃城となっていたが、慶長8年(1603年)、津山藩が立藩され、森忠政が入封し、築城に着手する。 なお、森忠政は、本能寺の変で織田信長とともに討死した森蘭丸の末弟である。

元和2年(1616年)、13年の歳月をかけて完成、近世城郭が出来上がった。 往時には、広島城や姫路城を上回る、77棟の櫓が立ち並んでいたという。

森家が改易ののち、越前松平家の松平宣富が後を継ぎ、明治維新を迎える。


明治初年の廃城令により、天守や櫓などの建物がことごとく破却される。 明治初期の写真にあるような壮大な城郭が残されていたら・・、大きな損失であったと思う。


平成17年(2005年)に、写真にある備中櫓が再建されている。

津山城跡

津山城跡
<<津山城跡:本丸跡>>
広い本丸跡は、半分が整備工事中。

桜はすでに枯れ落ちている。桜の花の季節には、1000本を超えるソメイヨシノが咲き誇るらしい。 今日は、どちらかというと、もみじの季節になっている。

津山城跡

<<津山城跡:天守台>>
ハート形の石は珍しいと思って撮ったのだけど、あちこちのお城にあるようだ。

ハート形に似た、日本古来の「猪目」が魔除けの意味があるという。 その意味かもしれないし、ただの偶然かもしれない。

津山城跡
ハート形の石垣



津山城跡

津山城跡

津山城跡

<<津山城跡:もみじの散歩道>>