2023年3月23-24日 四国徳島の霊山寺から和歌山に向かう。方法は二つ、一つは徳島港からフェリーで和歌山港へ、 もう一つは、高速を使って大阪経由で和歌山に向かう方法である。 フェリーのほうが楽ではあるのだが、便数が限られており、時間的に合わず、高速を使用することに。 初めての阪神高速ということであったが、ナビを頼りに何とか乗り切ることができた。 |
![]() <<粉河寺:本堂と庭園>> |
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<<紀三井寺:楼門>> 西国三十三か所第2番札所 紀三井山金剛宝寺護国院。 ![]() ![]() 楼門は、永正6年(1509年)の建立。重要文化財。 楼門から231段の石段を上る。結縁坂といわれる。 なんでも、紀伊國屋文左衛門にかかわる、言い伝えがあるそうで・・。 脇に、ケーブルカーがあり、途中まで登れるようになっている。 試しにこちらに乗ってみる。 登りきると右に真新しい仏殿(平成14年-2006年建立)がある。 桜は五分咲き。ちなみに、翌々25日に満開が宣言された。 | ||||
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<<紀三井寺:大千手十一面観世音菩薩像>>
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<<紀三井寺:境内から和歌山市内を望む>>
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<<紀三井寺:境内>>
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<<紀三井寺:本堂>>
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<<紀三井寺:鐘楼>> 天正16年(1588年)建立。重要文化財。 紀三井寺は、正式名称を紀三井山金剛寶寺護國院という。 宝亀元年(770年)、唐僧・為光によって開基された。 為光が、仏法を弘めるため諸国を巡っていた途次、この地に至り、名草山頂に霊光を見た。 光の下をたどって、山に登り、そこに千手観音を感得した。 為光は、十一面観世音菩薩像を、自ら刻み、一宇を建立して安置した。 それが紀三井寺の起こりとされる。 | ||||
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<<紀三井寺:多宝塔>> 文安6年(1449年)建立。重要文化財。 境内では、最古の建物である。 重要文化財の建物は、すべて朱色も鮮やかに彩色が施されている。 | ||||
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<<紀三井寺:身代わり大師>>
紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有る寺ということで名付けられたといわれる。 今も境内には、清浄水(しょうじょうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三井があり、清水を湧出させている。 | ||||
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<<根来寺:大門>> 大門は、嘉永3年(1850年)の再建。重要文化財。 ![]() ![]() | ||||
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<<根来寺:駐車場から大塔>>
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<<根来寺:大伝法堂>> 文政10年(1827年)の再建。重要文化財。 本尊は金剛界大日如来・金剛薩捶・尊勝仏頂の三尊。 根来寺には入山受付が二か所ある。 駐車場近くの受付から入山すると、すぐに大伝法堂の開けた場所に出る。 大伝法堂・大塔・大師堂の三つの建物が並ぶ様は、壮観である。 もう片方の受付を入ると、鐘楼門の下に出る。 | ||||
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<<根来寺:大塔>> 天文16年(1547年)の竣工。国宝。 高さ37m、木造では日本最大の多宝塔である。 密教では、大塔を大毘廬遮那法界体性塔と呼び、真言密教の教主 大日如来の姿を表しているとされる。 根来寺の開山は、覚鑁(興教大師)である。 覚鑁は、真言宗中興の祖と言われ、新義真言宗は覚鑁の教学を元にしている。 | ||||
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<<根来寺:大塔と大伝法堂>> 覚鑁は、空海入定から300年ほど後の平安時代後期の僧で、永久2年(1114年)、20歳の時に高野山に登り、空海以来の学僧とうたわれた。 当時の高野山は、伽藍も荒廃し、伝法会も途絶していた。 覚鑁は、高野山の復興を図り、そのための教育組織として、大治5年(1130年)に、高野山内に一堂を建て伝法院とした。 幸いにも、鳥羽上皇はじめ有力者の協力を得て、2年後には、金剛峯寺の座主となり、復興を達成する。 | ||||
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<<根来寺:大師堂>> 明徳2年(1391年)の建立。重要文化財。 しかし、急激な改革は保守派の抵抗を招き、対立するようになった。 覚鑁は、対立を避けるため、保延6年(1140年)には、一派の僧を引き連れて高野山を降り、荘園であった根来の地に移った。 こうしてこの地に多くの寺が建てられ、総称としての根来寺が形成された。 | ||||
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<<根来寺:大師堂・大塔・大伝法堂>> 室町時代の末期には、一台宗教都市を形成し、根来衆と呼ばれる僧兵軍団が出来上がる。 しかし、豊臣秀吉と敵対した結果、雑賀攻め(紀州征伐)を招く。 天正13年(1585年)には秀吉軍が根来寺に到達し、大塔・大師堂などを残して全山焼失した。 関ヶ原の合戦後、生き残った僧は、高野山や奈良の長谷寺に逃れ、それぞれ真言宗智山派や豊山派となっている。 江戸時代になり、根来寺は紀州徳川家の庇護をうけ、伽藍の復興を果たし、現在に至る。 | ||||
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<<根来寺:光明真言殿>> 享和元年(1801年)の建立。重要文化財。 開山である覚鑁(興教大師)を祀る。 根来寺復興に力を尽くした紀州徳川家が、幕末に自らの御殿を寄進して移築した。 | ||||
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<<根来寺:光明殿庭園>> 根来寺庭園は、葛城山系を借景に取り入れた「池泉回遊式庭園」、砂紋の美しい「枯れ山水(左の写真)」、 聖天堂の前の聖天池一帯(次の写真)で構成される、国の名勝庭園である。 光明真言殿の完成に併せて、文化元年(1804年)頃に、完成したと考えられる。 | ||||
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<<根来寺:聖天堂と行者堂>> 聖天堂は、安永5年(1776年)の造立、文化5年(1808年)に現在地に移設。重要文化財。 手前にある聖天池に浮かんで、建てられている。 行者堂は、役行者を祀る。聖天堂や光明殿と同時期に建てられたものである。同じく重要文化財。 | ||||
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<<根来寺:鐘楼門>> 一風変わった中華風の門がある。 今でも、午前6時には鐘を鳴らしているとか。 | ||||
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<<粉河寺:大門>> 西国三十三か所第3番札所 風猛山粉河寺。 宝永4年(1707年)の再建。重要文化財。 ![]() ![]() | ||||
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<<粉河寺:童男堂>> 延宝7年(1679年)の建立。 千手観音の化身とされる童男大士を祀る。 童男大師は、現世利益の仏として、特に病気平癒のご利益があるとされる。 | ||||
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<<粉河寺:出現池>>
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<<粉河寺:中門>> 天保3年(1832年)の建立。重要文化財。
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<<粉河寺:本堂>> 享保5年(1720年)再建。重要文化財。 本尊は、千手観音(秘仏)。 粉河寺の草創の経緯は、国宝の「粉河寺縁起絵巻」に書かれている。 宝亀元年(770年)、紀伊国の猟師・大伴孔子古は、山中に不思議な光を発する場所を見つけ、そこに小さな庵を営んだ。 後日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一夜の宿を借りた。 童子はそのお礼として、7日7晩庵に籠って等身の千手観音の像を刻んで姿を消したという。 その後、平安時代には貴族や朝廷の庇護を得て、栄えていたという。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、堂塔伽藍と寺宝を失った。 その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、現存の諸堂が完成した。 本堂は、本尊千手観音を安置する正堂(二重屋根)と、礼拝のための礼堂(一重屋根)を前後に並べた形式をもつ。 正面から見ると、形式の違う屋根が重なって見える。西国三十三か所の札所の中では最大と言われる。 | ||||
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<<粉河寺:千手堂>> 宝暦10年(1760年)建立。重要文化財。 粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録がない。 花山法皇一千年忌に際して、西国札所の本尊が開帳されたが、粉河寺の本尊は開帳されなかった。 その際に公開されたのは、この千手堂の千手観音像(秘仏)であったが、それも217年ぶりの公開だったという。 また、お前立も秘仏であり、年一度の掃除のため開扉されるが、一般に公開されることはない。 | ||||
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<<粉河寺:六角堂>> 享保5年(1720年)の建立。 | ||||
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<<粉河寺:粉河寺庭園>> 中門と本堂の段差の部分に、多くの石や植物が配されて、石庭となっている。 これが、粉河寺庭園として国の特別名勝に指定されている。 |