2023年9月14,17日
 吉野ヶ里遺跡が発見されたときは、邪馬台国発見か?、などと、日本中が大騒ぎになった記憶がある。 佐賀県なので、なかなか行きづらいと思っていたのだが、いざ調べてみると、福岡空港から30分ほど。 思いのほかの便利さである。
 雨が心配だが、幸いにも、しばらく持ちそうだ。 今回は、萩と津和野がメインなので、今日は半日だけ、吉野ヶ里を見て回ることにする。

吉野ヶ里歴史公園
<<吉野ヶ里歴史公園:南内郭>>

吉野ヶ里歴史公園
<<吉野ヶ里歴史公園:入場口>>
大きな駐車場に車を停め、公園内を入り口に向かう。 お昼を食べた後で、いざ入場。

入場口の大きさにびっくりする。 今日は、平日で雨模様なので、お客も少ないと思うのだが、休日なんかは、混雑するのだろうか?

吉野ヶ里歴史公園

<<吉野ヶ里歴史公園:北内郭>>
ゲートをくぐって、幅広の橋を渡る。 天の浮橋というらしい。 遠景に、北内郭の、高楼(主祭殿)が見える。

モデルコースに従って、まず園内を周遊しているバスに乗って、一番遠い、北墳丘墓に向かう。

吉野ヶ里歴史公園
<<吉野ヶ里歴史公園:北墳丘墓>>
土や石を積み重ねて丘のようにした墓である。 弥生時代中期、紀元前1世紀ころのものと推定される。 吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬された特別な墓と考えられている。

横27m、縦40m、高さ4.5mの墳丘内には、14基の甕棺が埋葬されていた。

手前から祠堂(祭祀を行う場所)、立柱(祖先の霊が宿る柱)、墳丘墓と続く。

吉野ヶ里歴史公園
<<吉野ヶ里歴史公園:北墳丘墓内部>>
墳丘墓の内部は、発掘当時の状態で、本物の遺構や甕棺が展示されている。 遺構表面には、ヒビ、カビ、コケ等を防ぐ薬剤が塗布され、一定の湿度に保つための空調も完備されている。

やっぱり、本物は迫力が違うと感じる。

吉野ヶ里歴史公園

<<吉野ヶ里歴史公園:甕棺墓列>>
北墳丘墓から北内郭にかけて、整然と甕棺が並んでいる。

甕棺は、同じ形のものを上下につないだ形をしており、若干斜めになって埋められている。 まず、下半分を埋め、そこに遺体を置き、上半分をかぶせて上下をつないでから、全体を埋めるそうだ。

当時の遺骨もかなりの数が発掘されている。

吉野ヶ里歴史公園
<<吉野ヶ里歴史公園:中のムラ>>
北内郭に隣接して建てられている。

北内郭の祭祀や政事で使用されるものを、司祭者たちが作っていた場所と考えられている。 例えば、お酒、織物、道具などである。

北内郭は、二重の板壁と、二重の環濠と呼ばれる堀に囲まれている。

吉野ヶ里歴史公園

吉野ヶ里歴史公園

<<吉野ヶ里歴史公園:北内郭>>
北内郭は、吉野ヶ里全体の中で、最も重要な場所と考えられている。 重要な物事に関して、話し合いと祖先への祀りが行われ、最高司祭者からの託宣を受ける場でもあった。

主祭殿は、三階建てで、二階は支配層の集会の場、三階は最高祭祀権者が祈りをささげる場と想定される。

建物内には当時の様子が、割とリアルに再現されている。


北内郭は、アルファベットの「A」の字に似て、左右対称の形をしている。
吉野ヶ里歴史公園
=二階の様子=

吉野ヶ里歴史公園
=三階の様子=

その中心線は、夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ、太陽の運行線に一致している。 主祭殿はそれとは少しずれて、北つまり北墳丘墓のほうを向いて建てられている。

吉野ヶ里歴史公園

吉野ヶ里歴史公園
<<吉野ヶ里歴史公園:南内郭>>
祭祀と政事の場所とされる北内郭に対し、南内郭は、支配層の居住の場と考えられる。 高床の建物が多い北内郭に比べ、南内郭は人々が住む竪穴住居が中心である。

北内郭と南内郭の建物は、主に高床式と竪穴式の違いがあるので、時代が違うのかなと思っていたのだが、 実際は建物の利用形態の違いということらしい。

いろいろの研究成果から、建物が復元されていると感じる。


この家は「王の家」、後に見える家は「王の妻の家」と説明されている。

吉野ヶ里歴史公園

<<吉野ヶ里歴史公園:南内郭の門>>
南内郭の南の門(正門)の両側には、物見櫓が立っている。

そんなにゆっくり回ったわけではないのだけれど、2時間以上園内にいたことになる。

吉野ヶ里歴史公園
<<吉野ヶ里歴史公園:倉と市>>
南内郭の物見櫓から、「倉と市」を望む。
(手前の三つの建物は、南内郭の建物)

交易品や物産品の市が開かれたり、そこで取引される品々が保管される倉庫が集まった場所である。

吉野ヶ里歴史公園
<<吉野ヶ里歴史公園:南のムラ>>
南内郭の物見櫓から、「南のムラ」を望む。

「南のムラ」は、南内郭の南にあり、一般の村人の居住区と推定される。

吉野ヶ里歴史公園

<<吉野ヶ里歴史公園:板壁>>
この他にも、古代の森ゾーンには、古代の植生を再現した森や、600mに及ぶ甕棺墓列がある。 また、古代の原ゾーンは、約6haの芝生スペースとなっており、様々なレクリエーションが楽しめるようになっている。 正門である東口のほかに、北と西にもそれぞれの入り口がある。

今日も、修学旅行や遠足の生徒が、多く訪れており、広い園内でもにぎやかであった。

太宰府駅
<<太宰府駅>>
吉野ヶ里の次に太宰府天満宮に向かう。 どうしても、出来立ての梅が枝餅が欲しくなる。

今日は時間がないので、天満宮のお参りだけ。 九州国立博物館をわきにして素通りすることに。

太宰府天満宮

太宰府天満宮

<<太宰府天満宮:参道>>
参道には、由緒のありそうな古い建物もあれば、有名なスタバの木組みの店もある。

大宰府天満宮は確か三度目。

梅が枝餅は帰りの参道で買い、車の中で食べた。 ちょっと、あわただしかったかな?


太宰府天満宮


太宰府天満宮

太宰府天満宮

<<太宰府天満宮:太鼓橋/心字池>>
太鼓橋を渡る。

心字池にかかる三つの橋は、過去・現在・未来を表すという。

太宰府天満宮

太宰府天満宮

<<太宰府天満宮:楼門>>
現在の楼門は、大正3年(1914年)の再建。

楼門とは二階建ての門のことを言う。 この門は、太鼓橋方向から見ると二層の屋根があるが、本堂側からは一層しかない。

太宰府天満宮


太宰府天満宮

<<太宰府天満宮:仮殿>>
残念ながら、本堂は今年の5月から、3年間の解体修理中。 ということで、仮殿が建てられていた。

仮殿とはいいつつも、3年間、本殿の代わりをするとなると、立派なものが建てられている。 屋根には樹木が生え、ご神体も外から拝めるようになっている。


そして、飛梅は囲いの中で、立て札などもなく、確信なし。

関門海峡
<<関門海峡:関門橋>>
高速道路で関門海峡を渡るとき、門司側のPAで、いったん休憩。

大宰府からだと、1時間以上かかってしまった。割と福岡県は広い。

四国へ行くときに、何度か本四連絡橋を渡ったため、関門橋が小さく見える。 ちなみに、関門橋は橋長1,068m、明石海峡大橋は3,911m。

関門海峡
<<関門海峡:下関側>>
ここからは、下関側も、門司側も、同じくよく見える。 雨模様なのだが、晴れていれば、もっとよく見えたことだろう。

ただ、門司側は、門司港レトロで行ったことがあるのだが、下関側は行ったことがない。 外から眺めて、通り過ぎるだけ。

関門海峡

<<関門海峡:門司側>>


門司港レトロ

門司港レトロ

門司港レトロ

<<門司港レトロ:門司港駅>>
大正3年(1914年)、旧門司駅として開業。 鉄道駅舎として初めて重要文化財に指定された。 ちなみに、現役の駅舎で重要文化財となっているのは、他に東京駅丸の内駅舎だけらしい。

建物の後ろ側にプラットホームが伸びている。 典型的な櫛型のホーム(頭端式ホーム)で、レトロ感満載である。 上野駅(1階ホーム)、高松駅、天王寺駅などが有名である。

駅舎とホームの間は、屋根付き吹き抜けの開放的な空間になっている。

ちゃんと、みどりの窓口もある。 洗面所、上水道なども、戦前のまま残されている。 二階は食堂になっており、貴賓室や手荷物取扱所なども、用途は違うが残されている。 昔の待合室は、スタバになっていた。


昔懐かしき駅舎ということで、いつまでも浸っていたい空間である。

門司港レトロ
<<門司港レトロ:旧門司三井倶楽部>>
大正10年(1921年)の建設。
平成6年(1994年)、北九州市門司区谷町から移築。
重要文化財。

門司港地区は、往時の門司港の賑わいを残す建造物を中心に、商業施設などを大正レトロ調に整備したスポットである。 今日も休日であることもあって、若い人で大賑わいを見せており、駐車場に入るにも一苦労する。

門司港レトロ
<<門司港レトロ:旧大阪商船>>
大正6年(1917年)の建設。

門司港レトロ

<<門司港レトロ:旧門司税関>>
明治45年(1912年)の建設。
昭和20年(1945年)の門司空襲で大きな被害を被ったが、 平成3年(1991年)に門司港レトロ事業の一環として外観が復元された。

後方にあるのが、門司港レトロハイマート(31階建て高層マンション)である。 最上階は展望室(門司港レトロ展望室)になっており、関門海峡・関門橋・門司港レトロ地区を、見渡すことができる。