2023年9月16日
 津和野は島根県にある。 萩津和野とくくられることが多いので、山口県のようにも思われるのだが、実は島根県である。
 萩もそうだが、なかなか行きにくい場所である。 新幹線でも飛行機でも、最寄りの地点から、来ることはできても、萩津和野間を移動することは車でないとむつかしい。 そんな訳で、一念発起、両方にチャレンジすることにした。

津和野城
<<津和野城跡:織部丸の石垣>>

津和野城
<<津和野城:登山リフト>>
朝一番で、城跡へ登る。

中腹まではリフトが通じている。

津和野城は、標高367mの霊亀山上に築かれた山城である。 戦国時代までは、三本木城と呼ばれ、吉見氏が居城としていた。

江戸時代初め、一時坂崎氏(千姫事件で有名)が入城して大改修を行い現在の形となった。 坂崎氏の改易後は、津和野藩亀井氏の居城となる。

津和野城
<<津和野城:登山道>>
登山道は、比較的整備されており、危ないところはない。 ただ、雨や落ち葉などで、滑りややすいところはあるかな。

リフトの駅から山頂までは、歩いて20分程度である。

津和野城

<<津和野城:織部丸>>
本城の北側、およそ250m付近にある出城。

織部丸の北東部には二重櫓があった。 本丸館が焼失した後は、城下町から眺められる、津和野城のシンボル的な建物であった。

津和野城
<<津和野城:織部丸から本丸へ>>
いったん登った後、本丸に向かって下り坂。 結局また、本丸に登ることになるのだが。

津和野城

津和野城

<<津和野城:本丸の石垣>>
東門跡を過ぎると、石垣が折り重なって迫ってくる。 まさに、山城を実感する。 ただ、ちょっと足腰にはよくない。

津和野城は、天守台に三重の天守が建てられていたという。 ちなみに、正確に言うと、天守台は二の丸にある。

城の最高所は、その先の本丸三十間台になる。

津和野城
<<津和野城:本丸三十間台>>
天守台が別にあるとすると、ここには何があったのだろう?

津和野城

<<津和野城:三十間台から津和野市街>>
ここからは、津和野市街が眼下に広がる。

♪城跡から見下ろせば
 蒼く細い河
 橋のたもとに造り酒屋の
 レンガ煙突

さだまさしの「案山子」は、この城跡からの風景を歌ったものだという。

太鼓谷稲成神社
<<太鼓谷稲成神社>>
安永2年(1773年)、津和野藩7代藩主亀井矩貞が、津和野城の鬼門に当たる太皷谷の峰に、 京都の伏見稲荷大社から勧請を受け創建した。

祭神は、
 宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)
 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
の二柱である。

江戸時代は、歴代藩主の崇敬を受け、藩主以外の参拝が禁止されていた。

太鼓谷稲成神社
<<太鼓谷稲成神社:元宮>>
大正12年(1923年)、社殿を建立。
現在の元宮。

太鼓谷稲成神社

<<太鼓谷稲成神社:本殿>>
昭和44年(1969年)の建立。

ここの神社は「稲"成"神社」と表記する。 藩主亀井矩貞の頃、城の御蔵番が蔵の鍵を紛失。 禁を犯して当神社に七日七晩願掛けに通ったところ、鍵が見つかり、助命された故事による。 この時から、「成」の字を使用するようになったという。

願い事が叶う「大願成就」の意味が込められている。

殿町
<<殿町通り>>
山から下りて殿町通りの駐車場に車を入れる。

殿町通りは、まさにイメージに描いていた津和野そのまま。 白壁の土塀、掘割にはコイが泳ぐ。5-6月には花菖蒲が咲き乱れるという。

殿町

<<殿町通り:多胡家老門>>
多胡家は、亀井氏の筆頭家老職を長年務めた家柄で、この門は、同家の表門に当たる。

嘉永6年(1853年)の大火以降の建物であるが、江戸期の武家屋敷門の様式を伝えている。

ただ、ここにあるのは門だけで、裏は道路が通じている。 もっとも、敷地が広かったので、道路の反対側の昔の敷地内には屋敷が残っているらしい。

殿町

殿町

殿町

<<殿町通り:藩校養老館>>
天明6年(1786年)、8代藩主亀井矩賢が創設。 現在の建物は、大火で焼失後、安政2年(1855年)に移転、再建されたもの。

門から入って、左側が弓術道場、右側が槍術道場、正面の土蔵が御書物蔵である。


ここは、昭和49年(1974年)の「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」のロケ地となった場所でもある。 撮影当時、ここは町立図書館として使用されていた。 映画内でも、マドンナである吉永小百合が図書館で働いている設定であった。

吉永小百合が、掘割の鯉をのぞき込むシーンも確かあったような。 まだ、彼女は20代だったんだな、そのときすでに大女優だったんだな、と感慨深い。


津和野出身で、養老館で学んだ著名人として、森鴎外や西周等が知られている。

殿町
<<殿町通り:大岡家老門>>
多胡家老門の隣にある、この門は、同じく家老であった大岡家のものである。

殿町

<<殿町通り:津和野町役場>>
内部は、津和野町役場の建物である。

大正8年(1919年)に鹿足郡役所として建てられた。 昭和30年(1955年)の町村合併で津和野町役場となり、現在も、現役の役場庁舎として使用されている。

平日、仕事してる傍らで、観光客にのぞき込まれないか心配。

殿町

殿町

<<殿町通り:津和野カトリック教会>>
昭和6年(1931年)、ドイツ人シェファー神父によって建てられたゴシック風建築の教会。

明治初期、隠れキリシタンが、長崎から津和野に流刑にされ、その多くがこの地で亡くなった。 その慰霊のために建てられた。

お堂の内部は畳敷きになっている。 周囲には、キリストの処刑の絵が掲げられている。


殿町
ステンドグラスの光が揺れる、静かな空間であった。

弥栄神社
<<弥栄神社>>
名物の「黒いなり」のある食堂(美松食堂さん)へ行く途中に、神社がある。

境内には、ケヤキの巨木がある。
樹齢600年、樹高25m、幹回4m。
創建時に植えられたものらしい。 途中で折れたものか、上がなくなっている。

弥栄神社

正長元年(1428年)、当時の城主吉見氏が、京都の八坂神社の分霊を勧請して創始された。 その後、代々の城主や町民の崇敬を集めて現在に至っている。

元は、「滝本祇園社」といったが、慶応3年(1867年)、弥栄神社と改められた。 祭神は、須佐之男命である。


7月の祇園祭の際に行われる、鷺舞も有名である。

津和野川

津和野川
<<津和野川>>
津和野の市街地を流れている。

津和野川にかかる津和野大橋のたもとには、鷺舞のモニュメント公園があり、鷺舞の像が立っている。

津和野川

<<鷺舞>>
たまたま、白鷺が飛んできた。

鷺舞


乙女峠マリア聖堂

乙女峠マリア聖堂

<<乙女峠マリア聖堂>>
駅裏の小高い丘の上に、乙女峠マリア聖堂がある。

元治元年(1864年)、修好通商条約に基づき長崎に大浦天主堂が建てられる。 翌年、浦上の住民が天主堂を訪れ、信徒であることを告白する。 いわゆる「信徒発見」である。

その後、新政府による大規模な隠れキリシタン弾圧事件が起こる。 浦上四番崩れという。 浦上村の信徒ら3392名が配流となり、そのうちの153名がこの地に送られた。

信徒らは、乙女峠にあった光琳寺に収容され、改宗を求められたが、棄教するものはなかった。

津和野藩により、酷い拷問が行われ、明治6年(1873年)に禁教が解除されるまでに、37名の殉教者が出た。

殿町
光琳寺の跡地に、乙女峠記念堂が建てられ、殉教者を祀っている。