2023年9月16-17日 津和野から萩に向かう。どちらも、何時間いても、見どころは尽きない。 取捨選択しながらの見学となった。 萩は、大きく三か所に分かれる。萩城跡のある萩城エリア、松陰神社を中心とした旧松本村エリア、そして、 明倫館や、多くの藩士の家がある城下町エリアである。 |
![]() <<松下村塾>> |
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<<萩城:入り口>> 萩城は、別名指月(しづき)城ともいい、長州藩毛利氏の居城であった。 関ヶ原の戦いに敗れ、領地を防長二州に減封された毛利輝元は、広島城から当地に居城を移す。 一説には、幕府が交通の不便な山陰側に閉じ込めたとの話もある。 文久3年(1863年)、13代敬親が藩庁を山口に移すまで、この地が長州藩の中心であった。 現在の萩城跡は、指月公園として開放されている。 | |||
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<<萩城:天守台>> 指月山の山麓の平城と、指月山の山頂の山城とで構成されている。 萩城の天守閣は、複合式望楼型で、彦根城や松江城などと同じ形式である。 高さ14.4mの五層五階の天守閣であったという。 慶長13年(1608年)に完成し、明治初期まで威容を見せていたのだが、廃城令により明治7年(1874年)に解体された。 天守台の石垣は、緩やかな勾配の裾から、急勾配に立ち上がる、扇の形をしている。 美しさもさることながら、海沿いの三角州を地盤とすることから、その強度を補う面もあるという。 天守台東側には、長大な雁木が伸びる。 雁木とは、石垣の上に登る横に長い石段のことをいう。 降りにくくするため、急勾配で一段の高さが高くできている。 | |||
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<<萩城:指月山>> 標高145m。 麓には本丸や藩庁が、山頂には詰め丸が置かれた。 三角形の独立した特徴的な山で、遠くからでもそれと分かる。 天守が、平地にあって、城下から見ることはできないが、この山がその代わりになっているのかもしれない。 | |||
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<<萩城:花江茶亭>> 安政の初め(1854年頃)、13代藩主毛利敬親が、三の丸の花江御殿内に作った茶室。 明治22年(1889年)に、この場所に移築された。 時期から考えると、この茶室内で格式を捨てて、幕末の諸事が議論がされたのかもしれない。 | |||
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<<萩城:万歳橋>> 萩城の本丸跡には、明治11年(1878年)、志都岐山神社が建てられた。 毛利元就をはじめとして、歴代の藩主を祀っている。 その参道には、藩校明倫館から移設された万歳橋がかかっている。 | |||
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<<萩城:東園>> 二の丸内に作られた回遊式の大名庭園。 6代藩主宗広のときに本格的に整備され、7代藩主重就の時にも追加整備された。 | |||
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<<萩城:萩城浜>> 二の丸潮入門城外の浜に出る。 菊ヶ浜に続く美しい砂浜で、海水浴場としても有名である。 | |||
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<<萩城:二の丸土塀>> 昭和40年(1965年)に、石垣上部に50mほどの銃眼土塀が復元されている。 矢狭間はなく、四角形の銃眼のみで、海からの鉄砲攻撃に備えたものと思われる。 | |||
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<<萩城:旧厚狭毛利家萩屋敷長屋>> 安政3年(1856年)に建てられた厚狭毛利家の長屋で、明治維新後主屋などは解体されたが、この建物だけが残された。 重要文化財。 厚狭毛利家は、毛利元就の五男元秋を祖とし、毛利氏が萩へ移った後、厚狭(現山陽小野田市)に知行を得る。 建物は、梁間5m、桁行51.5mにも及ぶ長大な作りで、内部には土間はなく、畳廊下のついた格調高い造りである。 内部に、萩城の模型が飾られていた。 | |||
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<<笠山山頂展望台>>
写真の左にある三角形の山が、指月山(萩城跡)であり、その左に萩市街が広がっている。 手前にある小さな島は、九島という無人島である。 | |||
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<<松陰神社:松下村塾>>
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<<松陰神社:杉家旧宅>> 松陰は、下田渡海事件(ペリーの船に乗り込んで渡米を図ったが失敗した事件)により、野山獄に投獄される。 その後、出獄を許され、実家である杉家に幽閉の処分を受ける。 この建物の中に、松陰が幽閉された三畳の部屋が残されている。 この部屋で、講読を始め、その後、松下村塾を主宰することになる。 | |||
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<<松陰神社:拝殿>> 明治23年(1890年)、松陰の実兄杉民治は邸内に祠を立て、松陰の愛用していた硯と書簡をご神体として祀った。 明治40年(1907年)、拝殿を建て、県社として創建される。吉田松陰を祭神とする。 この時の社殿は、本殿の隣に、松門神社として残されている。 現在の社殿は、昭和30年(1955年)の建立。 | |||
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<<旧松本村:伊藤博文旧宅>> 伊藤博文は、天保12年(1841年)、熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)の農家に生まれた。 安政元年(1854年)、伊藤の父・林十蔵が萩藩の中間である伊藤家の養子となったため、一家を挙げて伊藤家に入家する。 以来、明治初年まで、伊藤博文はここを本拠とする。 松下村塾から、歩いて10分ほど。 ここからなら、松下村塾にも、手軽に行ける距離である。 なお、光市には、生家が復元されているという。 | |||
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<<旧松本村:伊藤博文別邸>> 伊藤博文が、明治40年(1907年)、東京の品川に建てた家。 その一部(玄関・大広間・離れ座敷)を移築している。 | |||
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<<萩明倫学舎:藩校明倫館>>
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<<萩明倫学舎:有備館>> 旧明倫館の、剣術場と槍術場を移転したもので、当時の遺構として保存されている。 藩士の武道訓練だけではなく、他国の修行者との試合場でもあった。 坂本龍馬も、萩に来た時に、ここで試合をしたことがあるという。 | |||
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<<萩城城下町:円政寺>> 萩城城下町の入り口にある円政寺。 円政寺は、建長6年(1254年)の創建で、長らく、大内氏・毛利氏の祈願所であった。 明治3年(1870年)に、当地にあった法光院と合併し、当地に移転した。 法光院は、慶長年間に、山口から萩に移転したお寺である。 この寺は、高杉晋作と伊藤博文が子供の頃に勉学したところ、と案内されている。 高杉の生家は近所なのだが、伊藤の家は割と離れている、どうしたことか。 実は、この寺の住職と、博文の母親とは、従姉弟の関係らしい。 母親に頼まれて、11歳になる博文を預かり、約1年半の間、雑用の傍ら読書や習字を教えたという。 となれば、年齢が近く(晋作が二歳年長)、近所に住む晋作との接点も生まれそうだ。 境内には、金毘羅社という神社が同居し、神仏混交のお寺となっている。 門前には、石の鳥居もある。 | |||
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<<萩城城下町:江戸屋横丁>> 萩城城下町に入る。 円政寺から、桂小五郎の生家に向かう横丁を江戸屋横丁という。 | |||
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<<萩城城下町:木戸孝允生家>> 木戸孝允は、天保4年(1833年)、萩藩藩医である和田家に生まれる。 7歳の時に、同藩藩士桂家の養子となり、桂小五郎となる。 しかし、養親がすぐに亡くなったため、生家に戻って少年時代を過ごす。
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<<萩城城下町:御成道>> 藩主が参勤交代の時に通った道ということで、御成道という。 御成道である呉服町の通りと、これに直行する三筋の小路(江戸屋横丁・伊勢屋横丁・菊屋横丁) に囲まれた範囲が、萩城城下町として、国の史跡に指定されている。 御成道のこの付近は、萩藩御用達の菊屋家と商家久保田家に挟まれている。 | |||
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<<萩城城下町:菊屋横丁>> 高杉晋作立志像のある晋作広場から、高杉晋作の生家を経て、菊屋家住宅までの小路を菊屋横丁という。 | |||
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<<萩城城下町:高杉晋作生家>> 高杉晋作は、天保10年(1839年)、高杉家に生まれる。 高杉家は、藩の大番士で禄高200石の大身であった。
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<<萩城城下町:菊屋家住宅>> 菊屋家は、元々大内氏に仕える武士であったが、大内氏滅亡後、毛利氏に従って萩に入る。 萩城の築城に、商人として協力し、その後も御用商人として、藩を支えてきた。 市内の菊が浜は、菊屋から名付けられたという。 菊屋家住宅は、江戸時代初期の建築と言われ、約400年歴史がある。 主屋など5棟が、重要文化財に指定されている。 常時公開されているのは、3分の1ほど。それでも、たいそう広く、庭も立派なものである。 春と秋のみ公開される庭は、500坪ほどの敷地で、枯山水様式の回遊式庭園という。 |