2024年6月29日
 費用を奥さんに出してもらっているので、希望には全面的に応えなければいけない。 今回は、三峯神社に行きたいとの、希望であった。 いくつか作った行程案の中から選ばれたのは、山梨側から雁坂峠を越えて秩父に抜けるものであった。
 結果的には、そううまくいかなかったのだが、それは後のお楽しみ。 雨の予報は気がかりであったが、出発は快晴の中だった。

ハイジの村
<<ハイジの村:バラの回廊>>

松代SA
<<上信越自動車道:松代SA>>
松代城は、真田幸村の兄である真田信之以来の、真田家の居城である。 しかし、その前は、海津城と言い、謙信と信玄の一騎打ちで有名な、川中島の戦いで武田氏の本陣があった場所である。

SAの片隅には、その戦いの布陣を模した医師が配置されている。

諏訪湖SA

<<中央自動車道:諏訪湖SA>>
上信越道から長野道を通り、中央道に出る。
まずは諏訪湖にご挨拶。

ハイジの村

ハイジの村

ハイジの村

<<ハイジの村>>
ハイジの村は、「アルプスの少女ハイジ」をイメージしたテーマパークである。 元は、県立フラワーパークであり、豊富な花に囲まれている。




ハイジの村

ハイジの村

<<ハイジの村:光のチャペル>>




バラや・・。
ハイジの村
ハイジの村




ハイジの村
ハイジの村


ハイジの村

ハイジの村

<<ハイジの村:虹の池>>




あじさい・・。
ハイジの村
ハイジの村


ハイジの村

ハイジの村



ハイジの村
<<ハイジの村:アルムの山小屋>>
ハイジがアルムおんじと過ごした山小屋。

ハイジの村

<<ハイジの村:森のチャペル>>
ハイジの村は、結婚式場としても利用されている。


この手の施設に何を求めるのかによって、印象は変わると思う。 思ってた以上に広々とした敷地に、自然と人工物が適当に折り合いをつけている。 子供連れで、ピクニック気分でシートを広げて、ランチを食べたい気分になる。

武田神社
<<武田神社>>
武田信玄の躑躅が崎館は、現在、武田神社となっており、100名城にも数えられている。

永正16年(1519年)、信玄の父である武田信虎によって築造される。 その後、信玄・勝頼と、三代に渡って、武田氏の本拠として、政治経済の中心地であった。

大正8年(1919年)、武田神社として創建される。 祭神は、武田信玄。

武田神社

武田神社

<<武田神社:拝殿>>
正面の橋を渡るの目の前に拝殿がある。

宝物殿の前には、なぜか、ハローキティの石像があった。 サンリオの創始者である辻信太郎氏は山梨県の出身だという。 形の良い、よくできた石像である。


武田神社
=キティの石像=
サンリオは、「山梨王」と言う説もある。

<<武田神社:中門と本殿>>


武田神社
<<武田神社:手水舎>>
武田菱の形をしている。

真田の六文銭のように、武田菱も隠れキャラのようにあちこちに隠れている。

と言うほど、隠れてもいないか。

武田神社
<<武田神社:名水 姫の井戸>>
信玄の娘の誕生の際、産湯に使用されたという。

武田神社

<<武田神社:水琴窟>>
水琴窟とは、底に小さな穴をあけた瓶を土中に埋め、わずかな水を流すことにより、穴から落ちた水滴が、 瓶の中で反響し、琴の音にも似た澄んだ音を地中に響かせる。 江戸期の庭師によって考案された、音の芸術の極致ともいえる仕組みである。

ここ武田神社の一角にも、水琴窟がある。

なぜかその形も武田菱?

武田神社
<<武田神社:甲陽武能殿>>
昭和60年(1985年)の建立。
能楽専用の能舞台。

武田神社

武田神社

<<武田神社:堀>>
躑躅が崎館当時の堀が、その面影を残している。


武田節に曰く。
 甲斐の山々 陽に映えて
 われ出陣に憂いなし
 おのおの馬は飼いたるや
 妻子に恙 あらざるや あらざるや

 祖霊まします この山河
 敵に踏ませてなるものか
 人は石垣 人は城
 情けは味方 仇は敵 仇は敵 

まさに、「人は石垣 人は城」を具現化したものが、この躑躅が崎館といえる。

甲斐善光寺
<<甲斐善光寺:山門>>



甲斐善光寺

甲斐善光寺



甲斐善光寺

甲斐善光寺

<<甲斐善光寺:金堂>>
川中島の合戦の折、武田信玄は信濃善光寺の焼失を恐れ、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を甲斐に持ち帰る。 その後、信濃善光寺三十七世住職・鏡空上人を開山として諸堂を整備し、永禄元年(1558年)甲斐善光寺を創建した。

御本尊は、武田家滅亡後は、諸家を転々とした後に、慶長3年(1598年)、信濃に戻り、現在に至る。


現在の本堂は寛政8年(1796年)の再建。

善光寺に特有の撞木造で、総高27m、総奥行49m、東日本では最大級の木造建築である。
重要文化財。

中陣天井には巨大な龍2頭が描かれている。 この部分は吊り天井となっており、手をたたくと共鳴現象が起こるため、「日本一の鳴き龍」と言われる。

地下には、「心」の字をかたどった、戒壇廻りもある。

甲斐善光寺
<<甲斐善光寺:梵鐘>>
この銅鐘は、信濃善光寺から移されたものであり、正和2年(1313年)に補修された銘がある。 信州から引きずって運んだということで「引き摺りの鐘」としても知られている。

総高200cm、口径(内側)135.2cm。

甲斐善光寺
<<甲斐善光寺:大仏>>
金堂脇に大仏がある。 案内板もなく、詳細は不明。

甲斐善光寺

<<甲斐善光寺:池>>
大仏脇の池。 水の色が異様。透き通っているが、青みがかって火山性の溶解物があるように見える。

とても、生物が棲めそうもないきれいさなのだが、鯉が泳いでいた。

恵林寺
<<恵林寺:総門(黒門)>>
恵林寺は、甲州市にあり、武田家の菩提寺として知られる。 特に、ここの三門で織田信長の焼き討ちを受け、壮絶な死を遂げた快川紹喜の遺偈は有名である。

元徳2年(1330年)、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤が夢窓疎石を招いて開山とした。

永禄7年(1564年)には美濃から快川紹喜が招かれ、武田信玄により寺領が寄進され菩提寺とされる。

恵林寺

<<恵林寺:四脚門(赤門)>>
天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐で焼失。 慶長11年(1606年)、徳川家康によって再建された。
重要文化財。

恵林寺

恵林寺
<<恵林寺:三門>>
天正10年(1582年)、武田氏を滅ぼした織田信長は、恵林寺を訪れ、匿われていた六角義定の引渡し要求する。

信長は、これを拒否した快川紹喜をはじめとする多くの僧を三門に封じ込め、焼き討ちにした。

快川紹喜は、燃え盛る三門の楼上で、遺偈を発す。


恵林寺
 安禅不必須山水
  安禅必ずしも
  山水を須(もち)いず
 滅却心頭火自涼
  心頭を滅却すれば
  火も自(おのず)から涼し


信玄が用いた軍旗「風林火山」(孫子の旗)は、快川に書かせて作らせたものだという。

恵林寺

<<恵林寺:開山堂>>
開山堂には、
 夢窓疎石(むそうそせき)
 快川紹喜(かいせんしょうき)
 末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)
の三像が祀られている。

末宗瑞曷は、天正10年(1582年)に全山焼失した後、徳川家康に命じられて恵林寺を再興した僧である。

恵林寺
<<恵林寺:三重塔>>
昭和48年(1973年)の建立。

ちょっと風変わりな三重塔。 納骨堂になっているようだ。

恵林寺
<<恵林寺:柳沢吉保墓所>>
5代将軍徳川綱吉のお側用人として権勢を誇った柳沢吉保は、宝永元年(1704年)に、甲斐の国に所領を与えられる。 以降、その子吉里が享保9年(1724年)に大和郡山に転封されるまで、柳沢家が甲府藩の藩主であった。

吉保は当地に葬られ、墓所が恵林寺に設けられている。

恵林寺

<<恵林寺:恵林寺庭園>>
開山である夢窓疎石の代表的な築庭である。